前回の続きです。
角栄さん・小沢さんは日本と中国との親交を進展させようとしました。
そして、戦後日本の対米依存度を縮小しようとしました。
はたして、それは正しいかを考えましょう。
その評価は、歴史観のなかでなさねばなりません。
人間は歴史の中で生きているからです。
<GHQ指揮下で国造りを再開>
現在の日本の設計・国造りは、第二次大戦の敗戦から始まっています。
建国以来、初めての敗戦です。
日本はここで、過去の日本をリセットしました。「一億総懺悔」という言葉も叫ばれました。
1945年(昭和20年)のことでした。
以後昭和26年に独立するまで、日本は、対米従属どころか、
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指揮下にありました。
「連合国軍」とはいっても、大半の職員はアメリカの軍人と民間人でなっておりました。
その米国の指導を受けて、日本国政府がその下で働いているという構造でした。
そして驚くべきことに、このGQHに働く若き職員たちは、日本を理想の幸せ国家にするとの理想を抱き、
日本造りをしていきました。
米国人には一般的に「与えるだけの愛」「無償の愛」がかなり身についています。
聖書で言う「グレースの愛」です。
彼らにはの精神が大いに働いていました。
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鹿嶋は、米国南部のサザンバプテスト地帯に居住していた時、
若き日にその一員だった老人に直接話を聞く機会に恵まれました。
彼は家具のリース会社を経営していました。
その話はリアルそのもので、鹿嶋は若きGHQ職員たちの理想追求の姿を確認しました。
GHQは、日本に革命的な経済体制改革を実施させました。
それらは、戦後日本にあった富の集中体制を打破する改革でした。
<財閥解体>
その一つは、財閥解体でした。
敗戦時の日本では、三井、三菱、住友家などの財閥家が持ち株会社を作り、
そこに傘下の企業の株を集中させてトップ人事も支配していました。
そこでは、三井の個々の会社の社長は、三井家の番頭のようなものでした。
財閥家の持ち株会社への富の集中は、戦後の三井、三菱などのいわゆる
旧財閥企業からは想像もつかないものであった、といいます。
戦後の財閥系会社のトップだった経営者から、その証言を鹿嶋は聞いています。
GHQは、その財閥家支配を解体し、持ち株会社を禁じてしまいました。
<農地改革>
第二は、農地所有権の分散化です。
GHQは、不在地主が保有する農地を日本政府に強制的に安値で買い上げさせ、実際に耕作していた小作人に安価に売らせました。
これを全国的に実施さすことによって、7割余りの農地が地主から小作人の所有に移りました。
これによって、戦前まで当たり前であった地主への富の集中が、打開されました。
小作たちは、極貧とそれによる地主への人間的隷従状態から解放されました。
<労働組合の合法化>
第三は、労働組合の合法化です。
戦前には、労働運動は非合法であり、運動家は検挙されました。
拷問を受けたものも数多くいました。
だが、企業は集団組織です。これに労働者一人ひとりが対応して労働条件を決めるとなれば、
そこでの力関係は企業に圧倒的に有利でした。
弱者である労働者は、不利な条件で働かざるを得ませんでした。
これに対して、GHQは労働組合を合法化し、労働者に組合を作らせました。
これによって、労働者の貧しさとそれによる人間的隷従状態も打開されました。
<経済発展には大衆への成果分配は必須>
資本主義方式では、私有財産制度を取ります。
そのシステムのもとでは、もし自然なままに置けば、富は持てるものに集中していきます。
時間と共に、累積的に集中していくのです。
すると、企業は時と共にその生産設備を十分に稼働できなくなっていきます。
需要不足によって、作っても売れないから稼働率が低下するのです。
金持ちが形成する商品への需要は限度があるのです。
戦前の日本では、総需要の不足で周期的に過剰生産力不況に見舞われました。
その都度、失業者は増大し、食べられなくなりました。
彼らは飢えから逃れるために、軍備拡張と戦争を切望していきました。
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資本主義方式が持続的に経済を成長させるには、やはり、拡大する生産力に見合った
大衆の購買力増大が必要でした。
上記三つの革命は、戦後始めてその条件を形成したのです。
<日本人自らの手では不可能な改革>
ここで、この三つの改革をよくみてください。
三つとも、「日本人自らの手ではとても出来ない」ものでしょう。
日本人個々人には、これを実現する政治見識はありません。
集団組織にもそうした統治能力がありません。
だから、戦前には、日本の資本主義経済は行き詰まったのです。
そして戦後のその状況の打開は、占領軍政府の強大な命令力によって、
初めて可能になったものなのです。
占領統治国が米国になったというのはまことに幸運でした。
もし、統治担当国がソビエト連邦になっていたらどうなっていたでしょうか。
秘密警察による白色テロは続き、国内からも「シベリア強制労働送り」になるものが
続出したでしょう。
蒋介石が、戦後賠償を放棄してくれたのもラッキーでした。
昭和25年に朝鮮戦争が起き、特需ブームが起きたのもそうでした。
幸運が重なったのです。
日本人も戦後よく働きましたが、そういう働きが活きる枠組みは
ほとんど、幸運によって得られているのです。
我々は、これをあたらめて認識する必要があります。
日本人や自分を無理に卑下して言っているのではありません。
ただ、「リアリズムに立て」といっているのです。
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そしてGHQは言論自由の制度も作ってくれました。
日本はGHQによるこうした国造りによって、
世界にも希な自由と豊かさをエンジョイする時代を戦後持てたのです。
こういう仕組みの国が、共産党一党独裁システムをとる国と
ジョイントして行かれるわけがありません。
<好きなタイプだけに>
余談です。
そもそも角さんが新潟の寒村から上京し、のし上がって行かれたのも、
GHQのしてくれた改革のおかげでした。
この社会的枠組みが、可能にした戦後日本経済の持続的発展のなかで、
角さんはのし上がれたのです。
だが、角さんにはそういうことを歴史的に知る余裕はありませんでした。
その結果、中国国交に無邪気な期待を抱き、安易な米国離脱思想に走ることになったのです。
そして分身の小沢さんは、師匠の道を踏襲していきました。
それには、27才で国会議員になる直前まで、司法試験勉強だけの
青春時代を送ったということも、効いていたようにみえます。
当時の学生は人間や社会に関して苦悩する時を持つのが通常でした。
ところが小沢青年は、そうした悩みを悩む歴史のないシンプルな青春を送っていた。
そしてそのまま国会議員の「先生」になってしまった。
これが、歴史観の希薄な国際行動を産んだのでしょう。
ザックリ言えば、素直なお坊ちゃんだったんですね。
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なお、誤解を避けるために言っておきます。
角さん、小沢さんは、鹿嶋には人間的には好きなタイプです。
メディアからの情報によるにすぎませんが、田舎者の木訥さ、根の純朴さ、人間的暖かさ、
への好感を感じます。
それだけに、お二人の不遇を残念に思います。