日本人の政治見識の幼稚さ、統治力の貧しさを、米国人は戦前から観察していました。
今から鹿嶋は、その実例を示します。
この話は、多くの日本人から反発を受けると思います。
昨今の対米従属脱却志向、日本国独立行動志向の風潮の中では
怒りを買い、孤立するかもしれません。
だが、敢えて思うところをリアルに述べようと思います。
<神風特攻隊>
実例の一つは、神風特攻隊の編成と実施です。
これについては、今も映画が作られていますし、実物映像がネットで見られます。
これをみた我々日本人はその成否をどう判断すべきか、戸惑ってきました。
戦後は漠然と一般論的に、「戦争はいけない」と思ったりしていました。
最近は愛国感情が高まって、これを「日本人の勇敢さや愛国心」を示すもの
と受け取る人も増えているようです。
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しかし、鹿嶋は敢えて言います。
あれは、日本人の、特に指導層の政治見識の欠如の産物だと。全くの愚策だと。
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戦争は究極目的ではありません。
それは他国の国民も死なせ、悲惨な状態に陥れますが、
国益だけから見ても、つまるところは国民がよりよき人生を送れるようにするための手段です。
ところが特攻政策は6000人の青少年を死なせています。
それも開始後しばらくしたら、満足な状態の戦闘機はなくなっていたといいます。
にもかかわらず,欠陥飛行機に乗せて若者を飛ばせ続けた。
ほとんどが敵艦にたどり着く前に海中に墜落したといいます。
それでも指導層は日本国が降伏するまで特攻を続けました。
惰性で続けたのです。
こうして、戦後の国家作りに最も貢献できる有為の若者たちを殺しました。
爆弾抱かせて自爆攻撃をさせたのです。
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考えてみて下さい。
そもそも、有為な若者にこんな自爆攻撃をさせねばならない状況は、
もう勝負はついている状況なのです。戦争はもう終えるべきなのです。
戦争は降伏して終わりではありません。降伏は新しい国家作りの出発点です。
指導層に歴史観がないからそれが見えない。
長期の歴史観を深く持てば、そういう判断が出来るのです。
<マニラ市街戦での政治的無能>
第二はマニラ市街戦です。
敗色濃厚になったフィリピンの大都市マニラで日本軍は、米軍と市街戦をしました。
日本軍人の死者は5万、マニラ市民の死者は25万と聞いています。
50万という説もあります。
市街戦では、軍人より市民が何倍も犠牲になります。
市民は都市から出ても生活する当てがありません。
だから、都市にとどまっています。そしてある日突然銃撃戦に巻き込まれます。
市街戦では軍人は市民の中に紛れ込んで戦います。結果的にそうなるのです。
攻める方としては、識別してるわけにいきません。結局無差別に殺します。
戦争経験のある人に聞くところでは、市街戦が一番怖いと言います。
突然目の前に出てきた人が、敵だったりするのです。
こうして日本軍は、自分たちの数倍の市民を死に落とし込んだのです。
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これも指導層の歴史感覚の欠如とそれによる無能を示しています。
市民の中に紛れ込んで戦うなどということになったら、もう敗戦は決まっているのです。
早く降伏して、新しい国家作りを志向すべきです。
少なくとも、都市から山地に撤退して、市民を死なせない戦をすべきでした。
そういう判断が出来ないことが、政治見識の欠如を示しているのです。
<本土決戦>
その思考は、敗戦近くの本土にも現れました。
指導層は、婦人たちにも竹槍訓練をして、本土決戦の準備をしました。
本土決戦となれば、マニラと同じく市街戦になります。
海岸線の多くの地域に米軍が上陸すれば、市民は全国的に巻き込まれます。
本土は地獄絵図となります。
竹槍で進撃したら、機関銃でまとめて撃ち殺されるのみです。
穴や溝を造って隠れたら、火炎放射器で焼き殺されるのみです。
それでも軍指導部は、降伏の決定が出来なかった。
しなかっただけでなく、出来なかったのです。
もう指揮系統も乱れて、自説に従わないものを互いに殺すのみとなること必定でした。
政治見識、統治能力の欠如がそれを産んでいました。
被害者には、本当に申し訳ないのですが、それを救ったのは広島長崎の原爆のみでした。
あれで、天皇の詔をラジオで放送する道が出来た。かろうじて出来た。
本土決戦などしたら、その何十倍という死者が出たでしょう。
出兵経験者の多くも、そういっています。
<GHQの日本対策>
米軍の指導者は、日本政府の統治能力欠如を関東軍の独走の時から観察していました。
彼らは、以後も政府が軍部をコントロール出来ない状態を見て、驚き恐れました。
軍隊は武器を持っています。
この集団をコントロール出来ないと、国家がいわゆる「狂人に刃物」という状態になります。
狂人は刃物を見境なく振り回します。国家がこういう状態になるのです。
だから彼らは新憲法に、第九条を組み込んだのです。
ここには、「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」がうたわれています。
それをもってして日本国憲法は平和憲法と誇る声が多いのですが、実状は今述べた通りです。
日米安全保障条約はそれとセットで考えるべきです。
米国は、刃物を持たせないために安保条約で国家防衛を代行してあげる、としたのです。
<自国を守らないことからの弊害>
もちろん、この状況は、先々に問題を起こしますよ。
①まず、自国を自分で守るといいう気概が国家・国民になくなります。
②すると、日本人は、食べて娯楽して眠るという生活を繰り返すことになります。
③テレビは大衆のこの状況に合わせて利益を上げようとして、衆愚番組を沢山流します。
今でも日本では、バカバラエティーTV番組が蔓延しています。
この状況はさらに様々な精神的問題をはぐくんでいきます。
④なによりも、国民に国際情勢を知ろうという姿勢がなくなります。
⑤国内政治についてもリアルな現実を敢えて知ろうという気風もなくなります。
~いまそれらがようやっと問題に上りつつあります。
だが、そんなことは、GHQ総司令官となるマッカーサーは、日本に到着する前から、
知り尽くしていました。
だから、日本統治のため厚木空港に降りたってすぐに、「日本人は政治的には13才」
と言い放ったのです。
日本造りにたずさわったGHQ職員たちもそれは、百も承知でした。
その上で、「まずはとにかく、狂人に刃物の危険だけは避けよう」としたのです。
~これが、平和憲法であり、日米安保だったのです。
この事実を知らずに、戦後米国の日本コントロールの実状を調べても、意味があまりないのです。
実状を明かして「戦後史の正体」だなどと大見得切ったり、それに感動したりしているのは、
政治見識の幼稚さの証明以外の何者でもありません。
<政治見識の貧しさが根源>
戦後日本の主要問題の根源は人民の「政治見識の欠如」だったのです。
まずこの問題を打開せねばなりません。
そして政治見識の向上に最も有効な手段は、人民の多くが聖書吟味活動をすることです。
これをこういう風に、突然、単独で言うと、論理の飛躍を感じられると思います。
だが、実はこれは最も現実的な方法なのです。
鹿嶋は、このブログでの連載「幸せ社会の編成原理」で、聖句主義活動によって
人民の統治能力が英国や米国で実現されていく歴史を示しました。
聖句吟味が当面、歴史が実証している唯一の「政治見識向上手段」なのです。
それでも「宗教!」と反射的に恐れる人が日本では多いでしょう。
だが、考えてみて下さい。
「対策手段があるという情報」を与えられていることは、幸運なことではないでしょうか。
なにも見当たらなかったら絶望です。
「宗教だ!」と腰を引きたくなっても、やってみることです。
なぜなら、小グループでの聖句吟味活動は、いわゆる「宗教」ではまったくなく、
むしろ「学究活動」「思索活動」であることが、やればすぐにわかるからです。
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鹿嶋も、出来ることなら他国からの政治コントロールがない状態がいいと思います。
だが、政治見識を高めないで米国の統治を振り払えば、そして国防軍をもてば、
国防軍はまた自国の統治者に失望していきます。
「もう俺たちがやるしかない」、となる。
すると政府はまた軍部コントロールが不可能な状態になっていきます。
政治見識と統治能力の自己育成が先なのです。