鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

20.<憲法制定会議の前にバージニアで起きてたこと>

2013年11月15日 | 聖書と政治経済学





<新国家の骨組み>

独立戦争での勝利が確定したのが1783年だ。
信教自由国家創設の、第一ステップがなった。

第二ステップは、国家憲法を成立させて立憲国家にすること。
第三ステップは、その憲法の中に信教自由の項目を修正条項としていれること。

バプテスト聖句主義者の夢は、以上が完遂して実現するので、
独立革命の成功は、まだ、目標の3分の1がなったに過ぎない。
彼らは、舞台裏で憲法創設の産婆役に奔走した。

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表舞台では政治活動家たちが新政府創立のために働いていた。

政治活動は連続性の中で展開される。

戦に勝利すると、従来、植民地全体を総括統治していた英本国の王権は自動的に排除された。
すると王権の下にあった個々の植民地は地方統治体として残る。
そこではすでに王様や領主から権限を委譲されたガバナーが地方政治を行ってきていた。
これはそのまま、州として続行する。

そして、これらを統括する全国政府を造る。
その前身もすでにあった。独立戦争を遂行した大陸会議がそれである。
政治活動家たちは、これを連邦政府に発展させるという方針で一致していた。

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新国家は王制ではなく、人民による民主制で運営することも、すでに当然の前提となっていた。

大問題の一つは、連邦政府に州がどれだけの権限を委譲するかであった。
各々の州には独自の事情と主義があった。これをめぐっての大論争が予想された。

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会議では、連邦政府の構造も決めなければならない。
大枠は以下のようになるだろう。

連邦政府にも旧植民地政府のガバナーのような政治執行者は必要だった。
この役職を大統領としよう。
そして、これは全国選挙で国民が選ぶようにしよう。

だが、選出後に執行が独裁的になっては困る。
人民の決定する法律に従って動いてもらわねばならない。
その法律は人民が代表を出して造る議会で決定する。
これは執行部門と独立分離させる。

その議会が衆愚政治に陥るのを抑制するために、二院制を取ろう。
下院の上に上院を造ろう。

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だが、大統領が議会の決定にそのまま従うようでは、ロボットのようになってしまう。
彼には独自の行動哲学も発揮させるべきだ。
そこで議会の決定に対して拒否する権限を与えよう。

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執行者である大統領府と、立法機関である議会が法に則してやっているかを
チェックする司法機関も必要だ。

これは二つの機関とは独立させねばならない。
こうして三権分立の政治構造案を形成する。




<憲法への定着>

それらのグランドデザインは法律文すなわち憲法にして定着させ、継続させる必要があった。
故にこれらの本格的議論は憲法案の作成活動の中で行われることになる。
草案を成立さすにはまず、憲法制定会議を開催せねばならない。

聖句主義者はその実現に裏舞台で奔走した。




<バージニア、第二の信教自由州に>

実はその前に、バプテスト聖句主義者はバージニアを第二の信教自由州にするに成功していた。

新独立国家が憲法制定の作業に入ったのは、1787年である。
この年、全州が参加する連合会議が成立し、そこに憲法草制定会議(憲法制定全体委員会)が立ち上げられた。
だが、その二年前の1785年に、バージニア州では信教自由がなっていたのである。
それはほとんどもっぱら、バプテスト聖句主義者の孤軍奮闘の果実であった。

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独立戦争の火ぶたが切られた1775年、この時すでに聖句主義者は
バージニア州議会で大規模会派を形成していた。
植民地が独立宣言したのは翌1776年。この年の最初の共和制議会で、聖句主義者たちは
「偶像礼拝を犯罪とする」と定めた法令を廃止させた。

偶像礼拝を反聖書的な行動であるとは彼らも考えていたが、
これを「権力でもって強制的に禁止すること」を止めさせたのである。
独立戦争のさなかでの改革であった。他にも、同様な強制制度の廃止努力を、彼らは続けていった。




<聖公会への教会税を廃止させる>

彼らはまた十分の一教会税(所得の10分の一を納税する)も難航の末1779年に廃止にもちこんでいる。
バージニア州は王領植民地だったので、法定教会は英国教会(聖公会)だった。
教会税はみなその教会に回っていた。聖句主義者はそれを廃止させたのである。




<指定宗教税案が浮上する>

すると「宗教税制で州内の教会を財政的に維持するのは必要」という意見が州議会で大勢となり、
指定宗教税(Assessment)案が提案された。

この税制案は~

全州民に十分の一宗教税の納付義務を課し、その税の使途を、自分が評価する教職者のために用るよう指定できることにする、

~というものだった。
自分の納税金で支えられる人を自由に選択できるというのは、宗教活動の自由を連想させたし、
タレントの人気投票みたいで結構楽しめそうな面もあったのでほとんどのグループは賛同した。

だが聖句主義者は反対した。
宗教活動の資金収集が国家権力に依存すれば政教癒着になるというのがその趣旨であった。
こうして彼らが長年抱いてきた、政府と宗教の完全分離思想が表に出た。




< 政教分離、信教自由、言論自由の関係>

ここで政教分離、信教自由そして思想言論自由という三つの概念の関係をみておくのがいい。

人は誰でも統治担当者になると、社会秩序の安定に突然敏感になる。
「社会」という人間の組織集団は、そもそもが成員の生活保全、自己保全を基本動機として
出来上がっていくものである。
この動機は成立後の社会でも基本本能となり、統治担当者は人民のこの本能を請け負うことになる。
だから秩序の安定に過敏になるのだ。

他方、宗教は人心をダイナミックに躍動させたり、社会を宗教心で穏やかにしたりする効果を発揮する。
だから為政者は宗教を統治要素として取り込んでコントロールしたくなる。
人は誰でも、統治者になればその衝動を抱き続けるのである。


ところが政教分離が法制化されると、その衝動はブロックされる。
政治権力は、物的暴力手段(警察、軍隊)を合法的に動かせる唯一の権勢だ。
これが宗教者の思想を制御することが不可能になる。

ところが、宗教面での「思い」と他の活動面での「思い」を区分することは実際には出来ない。
そこで思想一般の取り締まりも自然に出来なくなっていく。
こうして思想活動全般も自然に自由になっていく。

それはその表現についても同じだから、これまたなし崩しに自由になる。

このように政教分離がなれば、信教自由と思想言論自由はドミノ倒しのように実現していく。
自由献金制はその政教分離の本丸だ。
だから聖句主義者は宗教税制への反対と同時に政教分離の実現の必要性を主張していった。




<第二の信教自由州、奇跡的に出現>

他の教会からの州議会代表者はみな指定宗教税制案を支持した。
彼らの集合体は多数派勢力を形成していた。
後の州最高裁長官ジョン・マーシャルもこの支持者だったし、
かのジョージ・ワシントンもこの時点ではこちらに賛成の姿勢だったという。

単独では最大会派になりつつあった聖句主義者も劣勢に立たされていた。
だが、ジェームズ・マディソン(後の第四代大統領)とトマス・ジェファーソン(後の第三代大統領)が
聖句主義者の弁護に回るという奇跡が起きた。
教会と距離を置いた位置から説く彼らの政教分離必要論の説得力が効を奏して、
自由献金制、政教分離原則は実現した。

憲法制定会議に先立ってバージニアに政教分離が確立していたのである。
ロードアイランド州に次いで、その約120年後に成立した政教分離原則をとる二番目の州となった。

政教分離原則が成立したのに続き、言論を罰する法律はすべてバージニア議会で廃棄された。
州民は「思い」とその表現が自由にできる快適さを、体験を通して事後的に知った。
州民の聖句主義者への信頼は急上昇した。
以後、聖句主義者はバージニア州議会を常時リードできるようになった。

これは聖句主義者の政治活動を容易にした、
以後彼らは対外的に、バージニア州議会として、つまり、バージニア代表の衣装を着て活躍できていった。

バージニアはロードアイランドを遙かに凌駕する強大州だった。
聖句主義者はここを新たな活動本部として、国家憲法制定会議開催の根回しに奔走し、
かつそこで提出する憲法草案の作成にとりかかった。
会議は二年後の1787年に開催の運びとなった。





コメント (5)
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