鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

30 <世界の神イメージを把握する物差し>

2014年04月18日 | 聖書と政治経済学


前々回、鹿嶋は次のことを述べた。
・人は全体観の中に、物事を位置づけその意味を定める。
・全体観は広範囲であるほど、影響力が強い。
・最大の全体観は「神」イメージを含む全体観である。

今回は、さらに進んで、世界の神イメージのありかたを鳥瞰しよう。
それは諸民族の世界意識・全体意識を知るに役立つはずだ。

世界の神イメージを鳥瞰するには、そもそも人間はどんな神イメージを抱きうるかを、あらかじめ原理的に考察しておくのがいい。
そして、すべての神イメージをその中に位置づけられる物差し・尺度を造るのだ。
するとそれをいわば公分母にして、その上に個別的な事象を分子として位置づけていくことができるだろう。





<在物神>

尺度の一方の極は、人が自然物の中に存在するとイメージする神とすべきだろう。
人間は神覚的動物といわれる。
自然なありのままの状態でいれば、物の中に神を覚えイメージしていく。

たとえば森の中で巨大な樹木に遭遇すると、その中に本能的に神を覚える。
日本ではそれの周囲にしめ縄を張って外部の事物と区別し、内側を掃き浄めてそれを礼拝したりする。
そういう様式はとらないにせよ、他の民族もこの種の巨木のなかには神イメージを抱くだろう。
巨大な岩にも同様な感慨を抱くだろうし、山や川や空にも同じ感慨を抱く。

これらは物の中に存在するとイメージされる神だから、在物神といっていいだろう。



<礼拝は崇高感をもたらす>

人は神イメージを抱くと、それを礼拝する。
真摯な礼拝姿勢は、人に崇高感をもたらす。
そして崇高感は、自分が存在するに値するという自価意識を高める。
すると、道徳・規律を守ろうとする感覚も強くなる。

その結果、人は自らの内に「統一感」を増していく。
それは快適であり、かつ、心身の健康に良い。

だから人は在物神としての神イメージを抱くと、それを礼拝しようとする。
この行為が宗教と一般に呼ばれる。
この場合は、在物神宗教である。



<創造神>

もう一方の極には何を置くべきか。
それは聖書が供給してくれる神イメージ、「万物を創造した創造神」だろう。

在物神は自然物の中に存在するとイメージされる神だ。
創造神はその自然物の外にあって、その全てを懐に含むとイメージされる神である。
物の内にあるとイメージされる神と外にあるとイメージされる神・・・形式的にも対極の条件を持つ。

人の心の内でのイメージの出来かたも対極的である。
在物神は人間の意識に自然にめばえる神イメージである。
創造神は外から言葉で与えられて初めて心に形成される神イメージだ。

社会的影響力においても対極だ。
在物神を礼拝する宗教は多くの人々の心を捕らえている。
創造神を礼拝する宗教は、具体的にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教だ。
今世界人口は、キリスト教圏とイスラム教圏をあわせると半数近くに達する。



<創造神イメージの生成と展開>

創造神という神イメージが、外から言葉で与えられて初めて人の心に形成される状況を少し具体的に見ておく。
それは聖書に詳細に記述されている。

聖書の記述では、創造神イメージは、万物の創造神自らが人間に導入していく。
その方法は次のようになっている。
まず、アブラハムという感性のとびきり豊かな人間を選び、彼に家族を引き連れて父祖の地を出よと命ずる。
彼の家族は、推定200人近くの奴隷やラクダなど動物ももった一大集団である。
父祖の地は、今のイラクの中の一地域である。

創造神は、自分が指し示す方向に移動せよ、と命じカナン(今のイスラエルやシリアのある地域)に導いていく。
途中の地点で定住もさせるが、また旅立たせる。
人は一地点に定住すれば、自然に在物神を造っていく。
それから周期的に脱却させる必要があったのである。

創造神は自分に忠実なアブラハムの子孫を繁殖させて一民族とし、それを自分のメッセージの受け皿にしようとした。
これがイスラエル民族である。彼らはユダヤ民族とも呼ばれる。

創造神はそこから自らの神イメージが全人類に普及するのを遠望していた。
聖書が描く歴史には、そう記されている。




<イエス、創造神イメージに民族の壁を越えさせる>

この神イメージは後にこの民族の中に出現するイエスによって、民族を超えて普及させられていく。
その主たる流れは、まず、発生地エルサレムから地球を西回りする形で今の欧州大陸への普及である。
ついで、近代になると今のアメリカ大陸に普及する。

日本には、戦国時代に欧州からの宣教者によって導入される。
カトリック教団の修道会、イエズス会の修道士が導入する。
その先駆者が歴史教科書に出てくるザビエルである。

明治維新期には米国大陸から来たヘボンを初めとする宣教師がやってきて創造神イメージの伝道に努める。
ヘボンはこの時、聖書の初の邦訳を実施した。
こうしてはじめて創造神の神イメージを記した書物(教典)を日本人は好きなときに読めるようになった。
これは画期的なことであった。



<在物神に満ちた国>

にもかかららず、創造神の神イメージは日本では素直に育たなかった。
全国にあまりに盛んに在物神イメージが生い茂っていたからである。


聖書でのイエスの言葉に似せて言うと、創造神イメージはイバラが生い茂る地に落ちた種のような運命をたどった。
人々は聖書の中から道徳や処世訓を中心的に取り出した。

そのなかで創造神の神イメージは、素直に人々の心に吸収されることはほとんどなかった。

この状態は今日まで続いている。
次回にはそれを神イメージの物差しを使いながら、見ていこう。






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