現世の政治問題は、「チャーチ」では出来るだけ少なくしたい。
そうした中でも、これはいま緊急に述べておかねばという問題もある。
分祀(先の戦争で最高指導者と明示された人々の遺骨を、一般戦死者の遺骨と別に納めて拝すること)がそれである。
これに関する拙論をここに提示したい。
<異民族と境界を接する国>
日本は四面を海に囲まれていて、しかも東側には太平洋という大海原がある。
そのため、異民族に侵入されたり征服されたりする危険がきわめて小さな中で国家運営が出来てきた。
これは世界の中では異例なことである。
他のほとんどの民族国家は異民族集団と接している。
こうした国家では、統治の安定性を必要とする度合いが遙かに高い。
国家の一体性が弱まると、すぐに異民族侵入の危険が生じるからだ。
そのため統治者は、自らの定めた秩序(法)が厳格に守られることを求める。
だから秩序に反する者を、違反が悪であることを人民に周知させるためのシンボルとして、厳罰に処した。
<中国での伝統的刑罰>
中国はその一典型であった。
この国では、秦の始皇帝が統一国家を実現して以来、犯罪者の一族の墓を三代さかのぼって破壊し消滅させた。
これは中国人にはきわめて大きな苦しみを与える罰則だった。
なぜなら中国では古来より陰陽思想が人民の心に浸透しているからだ。
この思想では、現世の家を陽宅(ようたく)とし、死後の家を陰宅(いんたく)とする。
両者は対をなしていて、そのセットでもって家系は存在していると考える。
だから陰宅がなければその家系は存続し得ないことになる。
墓が消滅させられるのは、一族が消滅することなる。
これに儒教の家族に高い価値を置く思想が加わって、墓の破壊は彼らを恐るべき絶望状態に落とし込んだ。
重要な秩序の違反者には同時に、現世においても罰が加えられた。
一族は三代にわたって扱いとなり、その間、強制労働の日々を送らされた。
ちなみに最近、北朝鮮でこの制度が実施されていることが報じられた。
また中国では現代にもこの刑罰が、慣習的になされているという見方もある。
むろん、ヒューマンライツ思想が普及した現代では、法文に明記されることはない。
だが、一党独裁での刑事法では大枠だけを定めて、実施段階に恣意性が多く残されるのが通常である。
実行段階でなされる余地は十分にあるのだ。
<集団行為の場合>
中国ではまた重要な秩序違反行為が集団でなされたときには、その指導者をシンボルとして罰した。
その上で他は許すという方式がとられた。
集団での犯行は多くの場合、政治的理由を持つ。
反体制的運動などはその代表である。
こうした場合、全員を罰すると多数者に恨みと復讐心が残る。
これがさらなる反乱の種になる。
だから、他は不問に付した。
近くは五人組事件に、こうした例を見ることが出来る。
これは現統治体制の転覆を謀るクーデター行動であった。
このような運動が5人だけでなされることはあり得ないが、共産党政府は協働者を不問に付し、5人だけをシンボルとして罰した。
公開裁判で広く報道し、有罪宣告を下した。
さらに近いところでは、小泉首相の時に彼が行った靖国参拝に対する暴動がある。
中国国内で多数が暴徒化し、日本食レストランや日本の店舗を破壊した。
日本大使館の建物の一部も破壊した。
これを心ゆくまで続けさせた後、中国当局は、指導者のみを捕らえ、他は不問に付した。
シンボルとして指導者を罰することでもって、「これは悪いことだ」という表明を人民に行ったのである。
<シンボルは単純な代替認知物>
シンボル(象徴と訳されている)とは、定義するならば「広大で複雑な中身を持ったものを単純に認識させるための代替認知物」となる。
法には「・・・をするな」という禁忌の命令が大きな比重を占めている。
それは一般的・全般的な命令として公布される。
だが、一般的なメッセージの記憶は人間(特に大衆)の意識のなかでは、時と共に薄れていくものだ。
ところがこれを少数の犯罪人によってシンボルとして示すと、人はその禁止の命令をはっきりと認識する。
具体例を見る毎に、記憶が明確になり、以後も想起再生が容易になる。
<終戦後の賠償免除>
以上の一般論に加えて、中国と日本の間には独自な事情も加わっている。
中国には陰陽思想と並んで儒教というもう一つ強固な行動原理がある。
この思想では、国家統治は家族の統治になぞらえて考えられる。
家族運営において、家父長は家族員に徳を持って対する。
家族員はこれに忠孝を持って応える。
この関係がなれば家族は順調に運営されていく、と考える。
国家運営では君主は家長に、人民は家族員になぞらえられる。
家父長は人民に徳を持って対する。
人民はこれに忠孝を持って応える。
これで国家は安定的に運営されていくとする。
そして国際関係もまたその枠組みで考えられた。
中国から見て朝鮮や日本は家族員であった。
中国は親で、朝鮮はその長男、日本はその弟であった。
中国は朝鮮や日本に徳を持って対する。
朝鮮と日本はこれに忠孝をもって応じる。
(朝鮮はこの原則を歴代守り続けてきている)
これで中国から見た国際関係はうまく運営されていく、と考えられた。
この思想は、長い伝統の中で、中国の為政者の意識の根底に根付いていた。
それが日中戦争での敗戦国になった日本に、戦争賠償金を免除するという行動を生んだ。
時の中国の代表者・蒋介石がその恩恵を与えてくれた。
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「政治見識のための政治学」の項でも述べたが、当時中国元首としての行動を容認されていた彼は、8月15日に当時臨時政府を置いていた重慶から「以徳報怨」(徳を以て怨に報いる)なる有名な言葉を含めた演説をした。
そこで彼は、日本が中国本土で与えた損害への賠償請求はしないと宣言し、日本軍に降伏を求めた。
計上された対日請求額は当時の金額で500億ドルにのぼっていたといいう。
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蒋介石のこの政策には様々な思惑が絡んでいたという批判もあるが、政治決定に多様な思惑が絡むのは一般的なことだ。
むしろ、そうしたなかでも「徳を以て怨に報いる」と宣言できたことが驚異的だ。
そして、巨額な戦争賠償金を免除した。
儒教思想がなかったら出来ない決定だ。
親が子のわがままに報復するわけにはいかない。
中国は自分の「子」を許したのだ。
<最高責任者のシンボル化はせよ>
この時、蒋介石は「だが中国侵略の最高責任者は明確に罰せよ」とは言わなかった。
それは、当時まだ日中戦争の最高責任者が公式に明らかになっていなかったからである。
極東裁判で最高責任者が明示されると、中国の指導者は「これは他の戦死者とは別にしておかねばならない」と主張した。
他の戦死者は、最高指導者の命令の下に徴兵され戦争行為をした。
この人民と、指導者の骨は共に置くべきではない。
一族全てを罰しなくてもよい。
彼らを拝することも容認しよう。
だがせめて当人の骨は、他の人民戦死者に紛れ込ませてはならない。
それが趣旨だったはずだ。
シンボルとして提示することによって、日中戦争は間違いであり悪だったと、明確に示し続けねばならない。
前述のように大衆はシンボルがあって初めて善悪の認知を続けられるからだ。
中国はそのシンボルを求めたのだ。
<奇異な国際心理>
だが、日本では人民も政治家の大半も、これがどうしても理解できない。
四面を海に囲まれ、アジアヨーロッパ大陸の東の果てに位置していることによって形成されてきた心理慣習が、その理解をブロックしている。
だがこれは国際社会では奇異な事象なのである。
中国だけでなく、欧州の諸国も異民族と境界を接して国家運営をしてきた。
中国と同様に、秩序の緩み、国家の一体性の緩みを恐れる気持ちは大きかった。
だから、重要な秩序を犯したものから指導者を選び、これをシンボルとして罰した。
隣国の政権者に取って代わったときには、従来の政権者を間違った秩序のシンボルとした。
平時においても、反秩序の行動について、その指導者をシンボルとして提示し続けた。
<悲惨体験はトラウマを産む>
中国は日中戦争・第二次大戦を経て、日本が海を越えて侵入してくる隣国であることを体験で悟った。
だから、これが間違いだったと人民が明確に認知することを切望する。
でないと、また状況次第で同じことをしてくる危険のある国だと認識しているからだ。
この認知を可能にする方法は、最高責任者を誤りのシンボルとすることのみだ。
(「戦後70年の平和行動を評価してください」、などは、子供の台詞なのだ)
これをしないので、隣国は常時トラウマの恐怖の中で暮らすことになっている。
この恐怖感は悲惨な体験をしたものでないとわからない。
だから分祀をしろと主張しているのだ。
そして見逃してならないのは、これは中国だけの感情ではないということだ。
間違い(悪)のシンボルを掲げることは、国際社会では当然の義務なのだ。
分祀は、一国内の政治上の問題に留まるものではないのだ。
<指導者の美学を生む面もある>
日本には「同じ戦争の犠牲者なのに可愛そう」という同情論もある。
だが、三代にわたって一族に過酷な刑罰を科すわけではない。
当人だけ、しかも、その骨を別の場所に納めるだけだ。
個人がそれを拝することも自由だ。
戦時においては、国家全体が「命令=服従」のシステムで運営される。
最高指導者は、その中で、命令する側の頂点に立った人だ。
それくらいの処遇はむしろ進んで受けるべきだ。
指導者として立った時点で、それくらいの覚悟は定めているべきなのだ。
別の場所に納めると、国民の一体性意識にマイナスを及ぼす、という懸念もあるだろう。
だが、それはプラスの面も発揮する。
分祀されて毅然として立っている姿が、指導者への美意識を生む。
それが国民の一体性意識を高める面もあるのだ。
<国際社会での義務>
だが、それは国内でのことだ。
分祀はすぐれて国際的な政治問題である。
それは国際社会における義務なのだ。
ところが日本は政治のトップまでもがそれをわからない。
「他国の政治問題に口出しするな」などといっている。
国際社会ではこれは素っ頓狂な言葉なのだ。
日本がシンボルの機能に無知蒙昧なままでいるので、隣国民族である中国人としては、過去に受けた残虐行為を訴求し続けるしかない。
諸事例を提示し「忘れるな、思い起こせ」と訴求し続けるほかなくなる。
ところがそれは日本人には、自国民全体への非難メッセージに聞こえてしまう。
これを耳にし続けると、日本大衆の心には、やり場のない怒りが蓄積していく。
これが嫌中意識を生んでいく。
同時に、中国人も自らの発するメッセージで、悲惨な体験を再想起し、それによって自分を傷つけ、トラウマを深めることにもなる。
こうして、このメッセージは双方の心中に恐怖と憎しみと呪いの意識を蓄積していく。
歴史事態は、50パーセントくらいまでは、緩慢に進行する。
だが、残りの半分は一気迅速に実現する。
蓄積されていく怒りはひとつの偶発事件によって暴発しうる。
両国民は、まるで悪魔が仕組んだかのような道を、それに向かってなすすべもなく前進している。
我々は、昔の悲惨さに戻ってはならない。
そのため、「国際社会の義務として」一日も早く分祀をすべきである。
(以上)