鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.29 ルター「宗教改革」の実像

2016年06月01日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」本日も続けて参りましょう。

+++

今回は、資料探索の話を中断して、本筋にもどろうと思います。

探索の話ばかり続けますと、「キリスト教の正しい学び方」が主題、という印象が薄れていきますので



そこで本日は、ルターの「宗教改革」(1517~)に入ります。






<宗教改革の定説は「ゆがんだメガネ」>


宗教改革に関する、教科書、専門書の定説はこうですよね~

従来のキリスト教はカトリック(旧教)である。

そこにマルティン・ルターは新教(プロテスタント)を出現させた。

こうしてキリスト教活動は、旧教、新教の二つの流れで構成されることになった~と。


+++

だが、このメガネはゆがんでいます。

この枠組は、聖句自由吟味活動という一大潮流が視野に入っていないものです。






<教理統一教団は後発会社>

これまでに述べたように、キリスト教会は、聖句自由吟味活動によって始まりました。

この方式でキリスト教は大普及した。

100年以上にわたって、その動きが続きました。

その後に、教理統一方式の教団があらわれました。

この教団は、後発会社なのです。

後発企業の幹部僧侶たちは、聖書の解釈体系(教理)を一つ入念につくりました。

そして、それを唯一正統な解釈として、信徒に与えていく方式をとりました。




<大衆信徒に大量対応するのに有利な方式>

この方式は、大衆信徒を大量に教会に所属させ、効率的に運営していくのにとても有効でした。

教団規模は急成長しました。

教会員も献金も多量になり、財力も急増していきました。

そして、ついに、時の政権(ローマ帝国)に唯一国教として認められました(392年)。

国家権力を使える立場を得たのです。






<本家本元を攻撃しはじめる>

すると彼らは、自分たちの出身母体であり、本家本元の自由吟味方式の教会を攻撃し始めました。

活動者たちを絶滅させようとしていった。

なんとも皮肉な歴史展開です。

だが、これが「キリスト教の学び方」の正しい枠組みなのです。





<ルターは教理統一教会育ちの聖職者>


さてルターです。

ルターは、自由吟味活動家ではありませんでした。

彼は教理統一教会の教職者だった。

この教会の神学校で育ち、僧侶の資格を得て働いていました。

知力が高い人で、同時にこの教団の神学校の教授も務めていました。








<内部から揺さぶる>

その彼が、教団の内部から教会の行き方に異議を唱えた。

それがルターの改革運動でした。

彼は内部から揺さぶりをかけたのです。

+++

彼の非難対象は、教皇(法王ともいう)制度でした。

この絶対権力社長制とも言うべき制度に異議を唱えた。

そんなものは「聖書的には成り立たない」と主張したのです。




<優れたキャンペーン能力>

教団本部に異議を唱えたのは、彼が最初ではありません。

ジョン・ウィクリフやヤン・フスらは改革運動の先駆者でした。

だが、みなつぶされていきました。

++

ところがルターは、つぶれなかった。

彼は広告キャンペーンの名人でもありました。

改革キャンペーンが開始されると同時に、隣国フランスで、ルターのの所論を述べた本が発刊されました。

そういう手はずを、彼はあらかじめ整えていたのです。

(後にもう一人のスターとなるカルバンはこれに影響を受け、フランス、スイスで反教理統一教会運動を企てました)






<地元の諸侯の賛同も得ていた>


ルターは地元の封建諸侯たちにも、十分な根回しをして、運動に賛同を得ていました。

これには、彼の年上の奥さんの貢献が大きかったようです。

彼女はサロンを開き、地元の有力者との入念な交わりを実現していました。





<見事な広告発信>

それらを背景に彼は、1517年、本国ドイツで発信を開始しました。

「現在の教団のやり方はおかしい!」

「法王制度なんて、聖書に反している!」



+++

発信方法も、ドラマチックでインパクトは強烈でした。


ヴィッテンベルクという都市に、教会兼城郭になっている大きな建物がありました。

その城門の壁に、本部教会への批判を書きつらねた紙を彼は貼りつけた。

深夜に95箇条に分けた読みやすい文章にして、貼り並べた。

朝になると、人々がその前の広場に集まり見るという仕掛けです。





<機を見てイベントも仕掛ける>


ルターはまた、有能なイベント演出家、かつ、タレントでもありました。

教団本部は、彼に破門状を出しました。

すると彼は、神学校の校地の一角で薪を燃やして、キャンプファイヤーのようなことを始めた。

そして破門状を火の中に投げ入れました。

集まった神学生たちの目の前で、それをした。

破門状も、一大イベントに仕立て上げてしまうルターでした。





<教理統一教会、大軍団で攻撃>



教理統一教団は、軍隊を送って反抗運動を粉砕しようとしました。

当時、教理統一教会の傘下にあったのは、フランスとスペインの軍隊でした。

これらは教理統一国家群の中の、いわゆる「宗主国」でした。

教団はこれらの大軍団で運動を押さえ込もうとした。


ところが、地元の封建諸侯たちは反撃に立ち上がったのです。

彼らは、長年教理統一教会の統率下におかれ、その命令に従ってきていました。

それがなんと、ルター支持にまわった。

彼らは、ルターをかくまい、戦いを開始しました。







<経済問題が大きかった>


余談です。

地元の諸侯がルターを支持したのには、経済問題も大きく影響していたようです。

従来国教だった教理統一教会は年々上納金を課してきていました。

これが多額だった。

諸侯たちはルター教会を設立して、この上納金負担から逃れようともしたのでした。


+++

ちなみに、後年、北欧諸国もまた、ルター教会支持に回ります。

この時にも、経済動機が大きく働いたようです。

これについては、インタビュー調査で証言してくれた人もいます。

筆者たちが北欧諸国の実地踏査をしたとき、 スウェーデンのある大学教授が、経済動機の大きさを指摘してくれました。





<日本戦後の高度成長期に類似>


余談の余談ですが、このあたりは、面白いですね。

日本のお寺や坊さんにも、法外な葬式、法事費用を人民に貸す時期がありました。

昭和35年ころに始まる高度経済成長期がそれです。

このころ、大衆は霊的な事柄にまったく無知だった。

それが霊的なことへの恐れを生み、彼らは坊さんのいうことに恐怖をもって従っていました。

いわれるままに法外な費用を支払っていた。

+++

一般家庭の葬式で、読経代金が60万円、戒名代金が20万円といったケースも希ではなかった。

そのほか、初七日、四十九日などの行事を営ませ、その都度高価な読経料を課した。

経済成長で大衆も何とか工面して支払えるようになっていたこともあって、彼らはしたがっていました。

「寺の坊さんがベンツに乗る」時代がやってきた。

いい気になった僧侶には、舞い上がる人もいたのです。





<弱みにつけ込むことは続かない>


けれども大衆は、徐々にこの状況に疑問を持っていきました。

そして「葬儀は親族だけで済ませました」と報告し、葬式をしない家族も現れた。

葬式代をディスカウントする葬儀屋も現れました。

僧侶の読経出張サービスをインターネットで、安価に通信販売するビジネスまで現れました。


+++

無知の弱みにつけ込むと、事態はこういう風に反転するのですね。

欧州の教理統一教会にも、その時がやってきたのでしょう。






<ついに一円支配に風穴>

話を戻します。

ルター戦争は長引きました。


+++

結局、共に疲れ果て、双方妥協しあって終息した。

アウグスブルク宗教和議(1555)でもって戦いは終結したのです。


そこでは~

 ルター派に、自派の教会をつくる権利が認められました。
 
  領主は、従来から存在する教理統一教会とルター派教会のどちらかを選択できることになった。

  そして人民は、領主が選択した方の教会に所属すること

    ~となりました。


欧州における、教理統一教会の一円支配は終わったのです。



   


<聖句吟味が自由になったわけではない>

ただし、これで聖句吟味活動が自由になったのではありません。

ルター派教会もまた、教理統一方式の教会で、自由吟味活動は相変わらず異端として制圧対象になっていました。

ルター自身も、自由吟味活動など許したら、教会も社会もバラバラになってしまうと思っていました。

その意味で、ルターの反対運動は、同じ方式の教団内部でのコップの中の嵐にすぎませんでした。

+++

けれども、それで、欧州は変わったのです。

アウグスブルク宗教和議で、一円支配体制のドイツでの終焉状況は固定しました。

ドイツのこの情勢は波及しました。

欧州の人々の社会意識、空気は大きく変わりはじめました。

ルターの改革運動とそれに続く宗教戦争は、欧州で1200年に及んだ中世の統制社会に風穴を開けました。

それによって欧州に新風が吹き込み、新時代の扉が開いたのです。





<自由吟味者の自由精神が噴火>


この動きに自由議員身者は、直接変革ショックを与えたのではありませんでした。

だが、彼らが地下で形成する自由の熱気のようなものは、ルターの改革にも影響していたでしょう。

具体的な歴史資料にはなりえなくても、「地から湧き上がる(思想の)空気」というものは、あるのです。

+++

北欧地域ほどではないのですが、ドイツは教理統一教会の宗主国、フランス、スペインからしたら僻地です。

やはりアンダーグラウンドで活動する聖句自由吟味者が、一定数いたと見るのが自然です。

後にドイツで起きる農民戦争(1524-5)には、過激化した自由吟味者が多数参加していたのですから。


+++

ルター戦争までのドイツの精神風景はこうだったでしょう。

~すなわち、自由吟味者たちが地下に潜んで活動し続けている。

その上の、地上では一般人民が従順に生きている。


+++

戦争は、その光景を変えました。

~まず自由吟味者が地表近くにまで上昇する余地ができた。

彼らとともに自由精神も上昇した。


その暖気に暖められて、一般人民も自由と反抗の精神を心に形成していったでしょう。

権力者への対抗意識をもち、対抗行動を取るものも現れた。

この頃のドイツ人民の精神風景を上空から鳥瞰すれば、地下の自由精神マグマが、ところどころで噴火しているようだったでしょう。


(Vol.29 ルター「宗教改革」の実像  完)



    








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする