心の平安(安息)は正確な認識にも必要である。
<ベルグソンの「時間」認識>
哲学者ベルグソンは「時間という実在は存在しない、概念だけのもの」ということを論証した。
彼は時間として認識されているものの実体・実在は「持続」のみだという。
彼は人間には直感という認識能力が与えられている、とする。
この能力を純粋に生かして実在を認識すると、そこで受信されるのは「持続」の感覚だという。
時間というのは、その認識内容に、平面幾何学の直線の理念を投影した概念にすぎないと論証した。
<ベルグソンの瞑想>
彼は図書館を主な仕事場としていた。
そこで長時間瞑想している彼の姿を人々はよく見かけたという。
心に安息を形成していたのだ。
深く繊細な感性認識は、心に平安あってのものだからだ。
安息があって初めて、実在の微妙な波動が識別できる。
彼の、この世の実在の的確な認識は『笑い』の心理分析にも見られる。
<霊感認識も同じ>
霊的存在に対する霊感認識も同じだ。
霊感とは、直感という認識能力の一部だ。
ここでも精神の平安・安息が、正確な対象認識に必須なのだ。
<量子論で理解すると>
量子論は、存在の根源は波動であることを明かした。
学者は光子という素粒子について実験で確かめた。
それは「認識されることによって」変化する、ということを。
(このあたりは、このブログ内の
を参照されたい)
認識者が発する意識波動の影響を受けるからだろう。
<「イエスの言葉が裁く」とは>
光子は波動体の一つだ。
波動体が、ただその存在を認識されるだけでも影響され変化するのならば、それが認識者による受信の状態によっても相応に変化するだろう。
受容されれば相応に、拒否されればまた相応に、変化するだろう。
この知識によって、従来その理由が謎であったイエスの次の言葉も物理学的に理解できる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私を拒み、私の言うことを受け入れない者には、その人を裁くものがある。
私が話した言葉が、終わりの日にその人を裁くのだ」(ヨハネによる福音書、12章58節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すなわち、イエスが語った言葉は、波動量子群という実体になっている。
それが否定的に認識された場合には、「最後の審判」のときに、その人に有罪の裁きをする意識体に変質する~と解せられる。
ちなみに、肯定的にアクセプトされると、イエスのその言葉の量子群は、認識者の霊を活かす強力な活霊量子群となって働くだろう(つまりその人を「活かす霊」になる)~と解釈できるのだ。
+++
聖句にあるイエスの言葉を、正確にして詳細に認識するにも、心が平静であることが必要となるだろう。
恐れや怒りがあれば、それは強い波動を発する。
それは、対象の波動体を顕著に変質させるだろう。
安息状態が、そうした影響を最小にするのである。
ルカ伝によれば、復活して弟子たちの前に現れたイエスは、自分にそれまでに起きたことを、詳細に説明している。
モーセから初めて、旧約聖書に書かれてきたことが、いかに自分のことを預言しているか、を教えている。
もちろん、教えは、霊的な奥義である。
こうした微妙な説明を把握するにも、こころの安息(平安)は必要であった。
だからイエスは、復活の姿で現れると、まず「安息あれ」といったのである。
イエスを見ても半信半疑で動揺している弟子たちに、まず「心に平安を」といったのだ。
<同一化のためにも>
蛇足ながら、認識哲学的にも、心の安息は正確な実在認識に必要といえる。
ベルグソンが明かしたように、正確な実在認識は、対象に心を寄り添わせ、同一化することで可能になる。
人はそれを内省、感触して、実在の正確な認識を得るのである。
量子論的にいうと、同一化によって自分の内にも、対象と同一の波導体が出現することになる。
その同一化が心に実現するのも、恐れや怒りの感情を抱いていて、心が荒れていたらできないだろう。
心を寄り添わせるには精神の平静、安堵が認識者の心に不可欠なのである。