前回、在物神イメージ(心理)の中身は感慨であり、創造神イメージの中身は理念であると言った。
理念には理屈が有り理論が含まれていると言った。
理論のいくつかを具体的に見てみよう。
<創造神は「唯一者」>
理念からは論理が展開する。 たとえば(万物の)創造神の理念には「ただお一方」しかおられない、という論理が連なって生まれ出る。
試みに「万物の創造神」がA、Bと二者おられたとしたらどうなるかを考えてみよう。
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もしA神様が「自分以外の万物」の創造者だとなれば、B神様はその被造物となってしまう。つまり、創造者ではなくなる。
逆にB神様が「万物の創造神」だとなれば、こんどはA神様が被造物となってしまう。
この様に、創造神が二者であるという理屈は成り立たない。
「万物の」創造神は実際には「ただお一方で唯一者」でしかありえない。
そういう論理が創造神概念には連なり含まれているのだ。
<創造神は「時間空間的無限者」>
この他にも「空間的無限者」「時間的無限者(永続者)」といった属性理念も連なり含まれている。
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空間的無限者、はこうだ。
もし「(万物の)創造神」が空間的に有限ならば、その外側のものは「オレが創った」とは言いがたいだろう。
だから創造神は空間的に限りがあってはならない。外枠の輪郭のない、どこまでも広がっている無限者でなければならない。
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時間的無限者も同様だ。もし、創造神の存在に「はじめ」があったら、どうなるか。それ以前のものは「オレが創った」とは言いがたいだろう。故に創造神は無限の過去から存在していなければならない。
未来についても同じだ。もし未来のある一時点で創造神の存在が終わるのなら、それ以後のものは「オレが創った」とは言いがたい。つまり「万物の」創造神でなくなる。創造神は未来にも無限に存在しなければならない。
つまり、万物の創造神は「時間的にも無限者」と論理的にもなる(聖書にはそれを示す聖句が多く記されている)。言い換えれば「永続者」なのだ。
唯一者であり、時間的にも空間的にも無限者である神。創造神概念にはそういう理念が連なって存在する。そういう理念体なのだ。
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これと、中身が感慨で理論が皆無な在物神概念との違いが、いかに大きいか。
それを銘記しないと、創造神ベースの宗教(キリスト教)の話を聞いていても、知らず知らずのうちに在物神感覚が意識に混入してきてしまう。
自然発生の在物神感覚は、心に根深く存在するからだ。
<在物神だらけの国>
そもそも人は、自然な状態においては,そこいら中の物質に在物神をイメージしつつ成長していく生きものなのだ。
狐や蛇などの動物にも神をイメージしていく(それを祀った神社も多い)。
その結果、どの社会でも人々の意識の中は在物神だらけになる。
八百万(やおよろず)の神というのは、そういう神意識が抱かれている現象を表皮的にみての言葉だ。
こうした神を「存在すると感じて」礼拝するのが「在物神宗教」だ。
在物神宗教もまた、島倉千代子の唄~“人生色々”~のように、色とりどりに咲き乱れる。
これまた自然の理だ。
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「日本は多神教の国」と誇らしげに言う知識人先生も多い。だが、この先生がたも神概念の相違に完全無知な状態でのたまっている。
「多神教の国」の実体は「在物神だらけの国」というだけである。日本人の神意識はほとんどそれ一色、というだけのことである。
<クリスチャンの心にも併存>
在物神意識はクリスチャンと自認する人々の心底にも根深く染みつき活動している。
創造神概念(理論を含んだ神概念)への、在物神イメージ(「存在する、しない」を感覚で判断するだけの神概念)の混入が頻発している。
信徒のみならず日本では、牧師さんにおいてもその傾向が濃い。
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=コラム=
<在物神イメージ混入の事例>
創造神なのに在物神的になってしまっている事例を一つ挙げておこう。
これはある教会の主任牧師さんによるSNSへの投稿だ。(意味が漠然としている箇所には、筆者が括弧を入れたり、その中に言葉を挿入したりして補っている)
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投稿文には、教会での説教のように、最初に聖句を掲げられている。おそらく説教の要約だろうが、とにかく下記の如しだ~。
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=聖句=
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、
神を求める者には報いてくださる方であることとを、
信じなければならないのです。」
(ヘブル人への手紙11章6節)
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=お話=
最近、生まれついての長年クリスチャンであると言われる人が(人でありながら)、
「神の存在を全く信じていない」と言う人に出会いました。
その方(信じていないという人)は「神が愛されているとか恵まれたと言うのが理解できない。(自分は)キリスト教という宗教をしているだけだ」と言われました。
私(牧師さん)は「神が報いて下さると言うのに
その対象が無いなら非常に虚しい事だ」と思いました。
やはり、神が実在されると強く証言ができる人や、
奨励される方が傍にいなくてはと思わされます。
私(牧師さん)は、大の宗教嫌いでしたが神様が
本当に居られると思ったから
キリスト教会に通うようになりました。
そうしたら聖書の通りに神様の体験をし、
信じる決心ができるようになりました。
神様が私を愛されている事、
その恵みを知り私は180度、変えられました。
本当に生まれてきてよかったと
言えるようになりました。
神様が居ないという事なら、
キリスト教はとっくに辞めております。
隣に住む83歳になるお母様も
もともとカトリックの女学校出です。
シスターに「神様は本当に居られるの?」
(と質問したら)
「さあ?どうでしょうね」と言われたので
信じるのを辞めたと言われました。
しかし、私(牧師さん)が「神様は間違いなく居られるよ」とお伝えしたら、
「そうなの? では、イエス様を信じます。」
と信じる決心をされました。
(投稿、以上)
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ここで牧師さんは、神様(創造神)が「存在する、しない」という感覚判断だけで信仰を語っておられる。だがそれは在物神向けの信仰だ。
上記の掲示聖句はパウロという伝道者の言葉なのだが、パロがここで言っている「信仰」は、牧師さんのものとは別ものだ。
キリスト教の神概念は、「万物を創り、統べ治め、限りなく大きく、永遠で、ひとり子をこの地上につかわし・・・等々の理念をもっている。それを知り、また証拠づける奇跡も体験して、徐々に得ていく「実在感と信頼感」がその信仰の中身だ。
より詳しくは後述するが、創造神向けの信仰は「知って深めていく」信仰なのだ。
それがここでは、在物神向けの「有る無し感慨」の信仰になりかわってしまっている。そういう典型例だが日本においてはこれがごく普通なので、殆どの読者はそれを奇異に感じない。
だが、こういうものを矯正しながら前進しないと、「正しいキリスト教の学び方」には近づけない。
どうするか?
その併存心理を自覚するのである。
それが、道をまっすぐにする作業のポイントだ。
それについては後述する。
(「正しい学び方」2・・・完)