「世界観は一つにせねば」という単一化性向が強烈に働いて、社会的に話題になった事件がある。
キリスト教のある教派(エホバの証人)の一信徒さんが、我が子への輸血をかたくなに拒否して死なせた事件。
記憶されている人もいるだろうが、事態はこうだ~。
<動物の血を食してはならない>
旧約聖書に「動物の血は飲んではいけない」いう律法が記されている。律法とは(りっぽう)と読む。創造神より人間に与えられた「守るべき戒め」という意味だ。
聖句をあげておこう。
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「・・・あなたはエホバが与えられた牛と羊をほふり、あなたの町囲みのうちで、食べたいだけ食べてよい。
かもしかや、鹿を食べるようにそれを食べてよい。汚れた人もきよい人もいっしょにそれを食べることができる。
ただ、血は絶対に食べてはならない。血はいのちだからである。肉とともにいのちを食べてはならない。
それを水のように地面に注ぎ出さねばならない。」
(『申命記』12章21-24節)
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この教派は旧約聖書の律法をとても重視する傾向を持つ。そこにも単一化心理がうかがわれるが、親御さんはそれに止まらなかった。「動物の血を食べる」を輸血を受けることを含むと解釈し、「これは神様が禁じておられることだ」と我が子への輸血を拒否したのだ。
<聖書には福音の世界観も>
聖書全体を鳥瞰してみると、そもそも聖書の持つ世界観は一つだけではない。旧約聖書の律法の世界観もあれば、新約聖書の福音の世界観もある。
律法は「それに違反したら(これを「罪を犯す」という)罰則と呪いを受ける」という思想をベースにした世界観だ。
福音は「罪は悔い改めたら、創造神の御子イエスの十字架死を代償にして許される」という思想をベースにした世界観だ。
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そして、キリスト教のキリストは、イエス・キリストのキリストだ。この名が示唆するように、この教えの中核はイエスの教えを記した新約聖書のほうにある。
これからすると、そもそもこの教派にはすでに、強い単一化性向がみられる。旧約聖書の律法を優先的に持ち出すのだから。
そして、この親御さんの場合、出発点からのそういう性向が加速して、「動物の血を食すること」が「人間の血を輸血する」が同じに見えてきた。そういう風景だ。
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<併存化の一案>
では、単一化性向に影響されなかったらどうなるのか?
律法重視は認めるとして、そのなかで律法と輸血を併存させる道があるとしたらどうなるか。
筆者の一案はつぎのようになる。
・・・律法には「動物の血を食べるな」とまでは書いてある。それを輸血までに延長したのは、まあ、私(この親)の個人的な解釈だ。そこで、それはそれとして心に留め、ここは創造神に祈りつつ、輸血もしたらどうかなぁ、~と。
こう考えて輸血もする。
<左右両者からボコボコにされる>
だけどこの案はやばいヨ。公言したらクリスチャンからも一般人からもこぞって、異議が唱えられるだろう。
クリスチャンはたとえばこうだろう~。
「二つの世界観を併存させて輸血を受けろ、なんていい加減なことよくいうよ。この論者には信仰的誠実さがない。 私はこの著者鹿嶋をクリスチャンとは、絶対に信じないからね!」
一般日本人はこうだろう~。
「著者はなぜこんな呑気なこと言えるのか。そもそも宗教は狂信的なもので、キリスト教も同じだ。そんな世界観を心に存在させることがそもそも問題だ。こんなのは"君子危うきに近寄らず”と敬遠するのが正解なのだ。この著者は全然わかってない!」と。
もう、右を向いても左をみても敵ばかり。鶴田浩二『傷だらけの人生』の世界・・・。
(「学び方」8・・・完)