先日石垣りん詩集を読み、今週は茨木のり子詩集に目を通した。そういえば、女性の詩というのは普段あまり読むことがないような気がする。
最近、その音の豊かさに再度認識を新たにしたチェロの曲を聴いても頭にすんなり入ってこないし、少々お疲れモードかと思い、気分転換が必要かと感じている。
そんな想念と関係があるのか、ないのか、先ほどふっと今の本棚を覗いて、「和泉式部日記 和泉式部集」(新潮日本古典集成)を手に取った。特に何を読みたいと思ったわけではないのだが、時々はこのような古典に眼を通したくなることは昔からの習性である。相聞の歌というのは、相聞としてではなく鑑賞することもできる。それは自由でもあり読む人の勝手でもある。そして何の気なしに開いた頁から眼をとおしてみた。
高校の古典の授業や入学試験での回答のように解釈する必要などさらさらない。世の中の風刺と社会状況に対する構えとして読んでもだれも咎められることはない。相聞歌だからこそそのような読み方もできるともいえる。
★惜しとおもふ 折りやありけん ありふれば いとかくばかり 憂かりける身を
★夕暮は さながら夢に なしはてて 闇てふことの なからましかば
★いづれをか 世になかれとは かおもふらん 忘るる人と 忘らるる身と
★世の中に あやしきことは いとふ身の あらじとおもふに 惜しきなりけり
★ものをのみ おもひしほどに はかなくて 浅茅が末に 世はなりにけり
★世の中は いかになりゆく ものとてか こころのどかに おとづれもせぬ
★たちのぼる けぶりにつけて おもふかな いつまたわれを 人のかく見む
最近、その音の豊かさに再度認識を新たにしたチェロの曲を聴いても頭にすんなり入ってこないし、少々お疲れモードかと思い、気分転換が必要かと感じている。
そんな想念と関係があるのか、ないのか、先ほどふっと今の本棚を覗いて、「和泉式部日記 和泉式部集」(新潮日本古典集成)を手に取った。特に何を読みたいと思ったわけではないのだが、時々はこのような古典に眼を通したくなることは昔からの習性である。相聞の歌というのは、相聞としてではなく鑑賞することもできる。それは自由でもあり読む人の勝手でもある。そして何の気なしに開いた頁から眼をとおしてみた。
高校の古典の授業や入学試験での回答のように解釈する必要などさらさらない。世の中の風刺と社会状況に対する構えとして読んでもだれも咎められることはない。相聞歌だからこそそのような読み方もできるともいえる。
★惜しとおもふ 折りやありけん ありふれば いとかくばかり 憂かりける身を
★夕暮は さながら夢に なしはてて 闇てふことの なからましかば
★いづれをか 世になかれとは かおもふらん 忘るる人と 忘らるる身と
★世の中に あやしきことは いとふ身の あらじとおもふに 惜しきなりけり
★ものをのみ おもひしほどに はかなくて 浅茅が末に 世はなりにけり
★世の中は いかになりゆく ものとてか こころのどかに おとづれもせぬ
★たちのぼる けぶりにつけて おもふかな いつまたわれを 人のかく見む