うーん、冒頭から延々と続くこのワンカットワンシーンごとき映像はやはりド肝を抜かれるわい。そうかまだこういう編集スタイルにも奥の手があったのだとおいらをニヤつかせる。
その映像表現もさることながら、この映画の意味深なところは映画と演劇との相容れない相違を強烈に暴いていることだ。
作品ではオーバー気味なE・ノートンにのたまわさせてはいるが(やはりイニャリトウも遠慮してる)、自分をさらけ出すことの意味を常に問い、闘っている演劇人と、人気回復の手段として演劇にしゃしゃり込んできたかってのちゃらい映画俳優との対比は辛辣だ。
そしてこの映画ではペン一つで演劇人を左右する無頓着な演劇批評家にまでその毒素は及んでいる。
一方(こちらのほうが重要なんだが)イニャリトウも何作目かでやはり81/2を映像で表現したくなったんだね。こればっかりは映画作家の病気みたいなもんだ。
映像で自分とは何か、なんて描こうととするのはもうかれこれ過去映画作家が何人もやってはいるが、こればっかりは表現者には面白いものなんだろうけれど、見させられる方(つまりは観客たち)からするとある意味迷惑千万なんですよ、と最近思えて来た。
でもこんな作品がアメリカで制作され(ある程度興行成績もいいのだろうか)、アカデミー賞まで獲ってしまうのが現代の不思議ならんとするところだ。(映画鑑賞後出口で、これがアカデミー賞かと嘆いていた老人がいたが、この映画でアカデミー賞を獲ったということが僕にはいい意味で驚かされる。最近こういう芸術映画っぽいのは敬遠されていたからネ、、)
とか言いつつ、僕は正直こういう映画は大好きなのである。ええ、カッコつけなく言っちゃいましょう。映画大好き人間ならこういう映画をどんどんほめちゃいましょうヨ。
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