立派とういうか、至極大層な題名であります。中上健次の原作であるとは知っていた。とすると例のたぎる、血のおののきを描いたものなんだろうと推量する。そして時代はかなり現代から遡っているようである、、。
どうやら中本一族の命を取り上げて来た産婆が語り部となって物語は進んでいく。美貌であると同時にその呪われた血筋が自分の身を滅ぼしていく半蔵の話がなかなか魅せてはいる。
中本、中本と産婆は叫ぶが、どうも観客は彼女の呼応にもかかわらず中本の世界に入って行くことができぬ。冒頭の井浦新から不可解なおどろおどろしさは多少感じるも、我が頭は少し斜めに傾いている。
路地の人間は山に支配され海に行くことは出来ぬ。和歌山に居る限りは差別を受けるが、大阪に行くことはできる。けれど結局みんな和歌山に帰ってくる。何故和歌山回帰すなわち路地回帰が生じるのであろう。
美貌であるがゆえに女どもから性の交接を受け、まるで本能を剥き出しの女性たちとの生き様を自らの血と出自のせいにする。原作を読んでいないから何とも言えないが、果たしてそんな即発的なものなのか。
それでも半蔵篇は一応じっくり描かれているから観賞に値する。けれど三好に至っては盗みをする喜びが血のたぎりになるということを彼の演技からは感じられなかった。あれじゃ、血のたぎりどころかただのヒロポン中毒の盗人ではないのか。そして三好篇は半蔵の半分の持ち時間しかない。
達男に至っては、ラスト近くちょっくら出て来るだけで、何故産婆とまぐわうのか唐突で意味不明の一言。そしてその産婆のナレーションで、北海道に行き、暴動を扇動し命を落としたと伝えられるのみ。達男篇は三好の1/5の持ち時間である。
これが若松の遺作なんだなあ、、。晩年の作品に秀作が多かっただけに実に残念の感もある。全体的に(悪いけど)産婆役の寺島しのぶが邪魔である。彼女のファンであるだけにこの映画の構造そのものに疑問が生じる次第である。
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