
このある意味大胆な題名。東京にオアシスはあるのか、なんて勝手に観客は見る前に思ってしまう。一応東京は表現しているが、そこにあるのはただ風景としての表層的な東京という都会がありました。
冒頭、真夜中の東京の高速道路を車が走っている。いつも見慣れたただどこにでもある東京の風景。これが延々と続く。この映画は風景を描いているのですよ、といいたいようだ。ちょっと幼稚(失礼)かな。
喪服姿の女がトラックに飛び込みそうなので男が止めに入る。女は車に乗せてと強要する。ある意味映画的なシーンだが、どうもぎこちない。でも、そのぎこちなさをスタッフたちは望んでいるようだ。男がコンビニで買い物をするシーンも2,3分あるが、全く意味がないように感じる。でもそれも風景としてこの映画に溶け込んでしまう。
男と女は真夜中の海岸にいる。何か意味のない話をしている。セリフは多い。それだけにやり切れない。だんだんこの映画のリズムに慣れてくる。そう、すべてが東京の風景なのだ。東京に生きている人たちの心の風景なのだ。分かるけど、ちょっとお高いところから描いていないかい?
映画館に勤めている女。一人の老女の様子がおかしい。隣に座っていた人から置き忘れられたという。心配のあまり部下に彼女を送らせる女。ここで彼女の仕事上の語りが入るもこれも特段意味なし。それより置き忘れられたと思い違いをしている痴呆気味の老女の方が発想的には新鮮だ。
最後のパーツの話は動物園にアルバイトの面接を受ける女性の話。ただ多少普通でないことのため(大学を5浪しているというだけのこと)に面接に落ちると思っている女性だ。とても他愛もない話で希薄だ。ただ面接の後、動物を見て回りこの映画はただそのまま終わる。
すべて東京の風景である。映像に映れば風景と化するのが映画でもあるのだ。恐らく賛否両論どころか、北欧の澄み切った空気(「かもめ食堂」)から2作3作を過ぎて東京のどんよりとした空気を見つめ出したこの作品を製作したスタッフたち。
このシリーズにある一定のファンはいるだろうが、【小林聡美】のみずみずしさがなくなり始めているようにこのシリーズも 急に閉塞感を漂わせている。もうこんな風景論はいいや、と僕は思う。だってこのシリーズで初めて心が潤わなかった映画なのだ。
これからこのスタッフたちはどこに行くんだろう、、。
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