何の前知識もなくふらりと演劇を見た。考えたら劇団二つの合同公演だから何らかの意味があるはずなのだ。合同公演と言うのも知らずただ演劇を見るという行為をした。
鹿が捕らわれている。農業をしている人は作物が荒らされるからと殺そうとする。しかし可哀想だからと逃がしてあげる人もいた。そこからこの不思議な演劇は始まる。
白い舞台に周囲に椅子が数脚。そこに俳優が控えている。この形式は最近多い構成だ。俳優が舞台の裏に控えているより演劇がリアルに見える。ただし俳優には酷だ。ずっと観客から見つめられている。
恥ずかしいことだが、僕はこの演劇が3.11を意識したものだとは気付かなかった。人間は「どこから来、どこにいて、どこに行くのか」というゴーギャンの絵画を思い浮かべてしまった。この美しい地球が人間のエゴによって破壊されようとしている。そういうイメージが強かった。
恐らくこの演劇のテーマは現代人にとって演劇は何ができるのか、ということなのだと思う。虚構から現実へと向かっていく構成も面白く演劇の可能性を強く感じた。
後半の舞台までに休憩がある。しかし舞台では模様替えが観客の目の前で行われている。これがなかなか面白い。4枚の白い畳を外し、喫茶店のチェアを何脚も入れる。その間5分ほど。いつも見ていない演劇の大道具等を垣間見る。
後半はまさに地震の後に喫茶店に逃げて来た人たちの話だ。先ほどの演劇とは違いセリフもかなり具体的で日常的である。4人ほどの登場人物の心のひだがだんだんと明らかになってくる。
でも、テレビのドキュメンタリー等で僕たちは地震と津波のリアルを真近にに見てしまっている。親を亡くした人たち。先ほどまで両手に強く握りしめていた子供たちを波に流された人たち。その人たちの言葉を聞いている僕たちにはちょっとだけれどこのテーマの演劇には弱さを感じる。現実と虚構。本当に演劇の可能性はどこまでなのか、難しい永遠のテーマですね。
舞台はほとんど停電状態の暗闇が続く。暗い。一点の灯りがラ・トゥールの絵画のようだ。電気がやっとつくことになって照明をつけた時の明るさよ。ほっとするその気持ち。暖か味。これシーンはすこぶる秀逸。
初めての演劇合同公演。とても面白かった。楽しかった。照明等スタッフも共有しなければならないというのも恐らく実際は大変なんでしょうね。そういう裏方部分も面白く拝見しました。
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