会場に入ると何と舞台の上はゴミ屋敷状態。新聞紙、ゴミ袋等が散乱している。劇とはいえ、正月早々気持ちが尻込みします。劇が始まるまで観客は目の置き所がない状態です。
でもよく見ると中央に盛り上がった新聞紙の山が二つほど。ひょっとしたらこの中に役者がいるのではないか、という密かな好奇心。幕が開く。その好奇心は当たる。二人の男がむっくりと起き上がる。
一人はむさい中年青年だ。何とランニングにトランクス状態。もう一人は白髪で高年齢の老人。こちらは長シャツに長ズボン下に短パンを着けている。ゴミ屋敷状態でのむさい二人の男たち。これからどうなるのか、、。
一人はどうも中年になっても引きこもり状態で、仕事に行かない。ガンダムのモデルを組み立てるのが趣味らしい。老人といえば、かなりの痴呆気味で中年はこの父親を持て余している。
いやはや、これは正月早々大変なものを見ようとしているな、と思っていると、どうも二人芝居ではなくなってくる。一方が母親に豹変したりして、その役柄を演じる。(舞台で同じ役者が何人もの役柄を演じるのは当たり前だが、この劇ではあのむさい(失礼をば)風体のまま違う人間の役を演じてゆくので、どうも観客の方は頭の切り替えがうまくいかない。やはり衣装というのは大事である。)
一人の男の生きざまが舞台で語られてゆく。現実社会の過酷さ。分かる。分かるけどなあ、、。
最後まで舞台のゴミが片付けられることはない。実際の、現実の汚辱は一掃されることはないのだ。ニュース等で客観的に見ているものを強制的に見せられたかのような強烈な演劇だった。迫真力がある。
でもこの劇には希望の灯があまり見えないんだよね。現代人には希望という文字はもはやないのだろうか。いや、そんなはずはないのだ。だって、あの老人はしたたかにしっかりとした腕力でベランダを登って来たではないか。
希望はあるのだ。
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