この映画を見てあっと思ったこと。1.設定が現代ではなく、何故か幼児期の満州の思い出が基底にあるという時代性のある話だということ。
2.良く考えれば長尺な映画だけれど、彼女が検事に会いに行く一日の話を脳裏に映る映像(回想)として捉えているという面白い撮り方をしていること。
3.ハイライトは前作の法廷ではなく検事室の取り調べにあり、あたかも観客たる我が身が検事と対峙していたように思えてしまったこと。この迫力はすごい。検事はやはりある犯罪から自分で脚本家のごとく自分でストーリーを描き映像化(検事調書化)する存在であるのだということ。
分かったのは、検事は何よりも真実を追求する存在ではないということだ。(それでは肝心の真実を追及する場はやはり法廷となるのだろうか。法廷とは証拠しか求めない場であることから真実とは違う所に行く可能性もある)
4.映像はほとんど彼女の脳裏にある映像を回想という形で写していることから、それが真実であるかどうかは分からないということ。例えば、役所が亡くなった後、草刈が子守歌を唄い泣き崩れるシーンは家族が周りにいる設定にもかかわらず無理に左部分だけをカメラが追っていた。これは回想とは言いながら彼女の妄想めいた部分もあるのではないか、と思えたこと。
5.題材は終末医療を持ってきているが、病気がガンではなく喘息だということだ。喘息で安楽死を願う患者がいるのかという疑問が僕の中のどこかにあったこと。
6.草刈の不倫に発した自殺未遂から、役所の心情が分かるくだりが説明されるが、これはちょっと無理なのではないか、ということ。(医者ってそんなに患者のことを一般的にも捉えていないのかよという疑問)仕事場である病院の空きベッドでセックスを楽しむ医師たちに患者の本当の心情が分かるのだろうか、ということ。
7.最後に、この映画を見て他人にかかわって自分の人生を反古にしてしまった哀れな女医の話と思ってしまう観客もいるのではないか、という危惧の存在すること。
これらがかなり印象に残ります。
映画的には前述したように、検事室でのやり取りがこの映画のすべてだと思われます。前作と同様に権力は真実なんか求めていないのであります。今問題になっている検事室での取り調べを有視化したものがこの映画なのではないでしょうか、、。
宮本武蔵さながら待たせるテク。帰りたい約束時間を巧妙に手口に使ってしまうテク。言葉は丁寧でも患者をその内被害者と言い捨て相手に殺人者意識を持たせてしまうテク。
こんなテクをもった検事に対峙して、市井の人間が真実を法廷で明らかにすることがそもそも出来るのだろうか、、。と、とても不安な気持ちになって来ます。
2時間半。周防正行の映画テクの斬新さもスゴイですが、何か重く、気になる厭なものが僕の背に付いてしまったような不快感を持って映画館を後にしました。こういうことにならないようにしないとね、と映画の感銘感より俗的な感想に陥ります。
秀作です。
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