鹿児島の自然と食

鹿児島の豊かな自然(風景、植物等)、食べ物、史跡を紹介します。

男淵・女淵の滝

2008-07-16 | 水辺の風景
種子島は、平坦で細長い島なので、大きな河川や滝はありません。
そんな種子島に、2段の滝があります。
男淵(おぶち)・女淵(めぶち)の滝です。
場所は、中種子町秋佐野で、太平洋側の増田に注ぐ向井川の上流付近です。
近くまで車で行くことができ、駐車場やトイレも整備されています。


上流にある男淵の滝。
 高さ:4m
 幅 :4m
 淵の面積:4アール


男淵の滝のすぐ下流にある女淵の滝。
 高さ:5m
 幅 :5m
 淵の面積:3アール


両方の滝を1度に見るところはないかと、場所を移動してみました。
ここからは、セットで見ることができます。


男淵の滝の上流は、早瀬になっています。

男淵・女淵の滝は
 ・種子島という平坦な島にあること。
 ・上下流にセットで2段の滝があること。
 ・どちらも広い淵があること。
ということで、少し珍しい滝です。
渇水期でも、水が涸れることはありません。
以前はあまり知られていませんでしたが、今は種子島の新名所になっています。
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古田御前

2008-07-15 | 史跡
静御前、巴御前など、御前と呼ばれる女性が歴史上何人かいますが、種子島にも、古田御前と呼ばれる賢母で知られる女性がいます。

古田御前は、鉄砲伝来の時の島主、種子島時堯の側室だった人です。
あるとき、時堯公は国上村に猟に行きました。
のどが乾いたので、人家で飲み物を求めると、娘が出てきて、最初ぬるいお茶を、次に少し熱いお茶を、最後に熱いお茶を出してもてなしました。
時堯公は、賢い娘がいるものだと感心し、側室にしたのです。

御前は、16代久時を生みました。
子供の教育をするのに、種子島の山中にあって寒い古田村を選び、屋敷を構えて母子で住み、厳しく育てたのです。
このため、古田御前と呼ばれます。


古田小学校の校庭にある、古田御前母子像。

久時は、たくましい武将となり、文禄征韓の役には兵を率いて4度も朝鮮に渡り、目覚しい活躍をしました。
寒い朝鮮で活躍できたのは、寒い古田で鍛えられたからです。


古田にある豊受神社。
ここに、古田御前の墓があります。


古田御前の墓。
御前は、古田において40歳でなくなりました。
孟母三遷の教えを実践した人が、種子島にいたのです。


神社の境内にある、イチョウの古木。
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栖林神社と種子島家墓地

2008-07-14 | 史跡
種子島の西之表市役所の近くに、栖林(せいりん)神社があります。
この神社は、第19代島主種子島久基を祀る神社で、松寿院が建立しました。
久基は、前回紹介したように、日本で最初に甘藷を栽培させた人です。
このため、栖林神社は、からいもの神社とも呼ばれています。
(栖林は、久基の晩年の号)


栖林神社。


社殿の隣にある弓道場。

ここでは、毎年1月11日、鹿児島県指定文化財の「大的始式」が行なわれます。
第12代島主種子島忠時が、弓の指南役として招いた武田筑後守光長が、宮中行事「御的始式」を伝えたのが始まりとされています。
的にめがけて36本の矢を射り、満つれば欠けるの戒めにより、最後の1本は故意にはずします。


弓道場の隣には、種子島家の墓地があります。


これは女性島主だった松寿院の墓。
とりわけ立派な墓です。


右から3番目は、鉄砲伝来のときの島主、種子島時尭の墓。
種子島家の島主の中で最も有名ですが、意外に小さな墓です。
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日本甘藷栽培初地の碑

2008-07-13 | 史跡
種子島には、日本で初めてというものがいくつかあります。
鉄砲の伝来と製造がその代表でしょう。
種子島は、日本で最初に甘藷(さつまいも、鹿児島ではからいも)が栽培されたところでもあります。
西之表港から国道を南に少し行くと、下石寺という集落があります。


下石寺にある日本甘藷栽培初地の碑。

元禄11年(1698年)3月、第19代島主種子島久基(栖林公)は、琉球王尚貞に懇願して、甘藷を譲り受けました。
家臣西村時乗に命じて、甘藷の栽培を研修させました。
時乗は、下石寺の大瀬久左衛門に実験的に栽培させ、苦心の末栽培に成功しました。
このため、ここ下石寺が日本で最初に甘藷が栽培されたところとされています。
元禄11年は、甘藷の普及で有名な青木昆陽が生まれた年です。

最初に甘藷を栽培した種子島は、今もからいもの栽培が盛んです。
焼酎、からいもでんぷんなどに加工されるほか、最近は美味しい菓子にも使用されています。
安納芋は、全国的なブランドとなっています。


石碑の隣にある階段を上がったところにある、下石寺神社。
この神社が、からいもの神社というわけではありません。
からいも神社は、西之表にある栖林神社ですが、それは次回紹介します。
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西之表港

2008-07-11 | 水辺の風景
高速船で種子島に着きました。
種子島の表玄関、西之表港です。


高台から眺めた西之表港。
中央の突き出たところが埠頭で、その左が西之表港。
右は旧港です。


西之表港の岸壁と、市街地を望む。


停泊している船は、鹿児島と種子島を結ぶカーフェリー「プリンセスわかさ」。
わかさは、鉄砲伝来にまつわる悲劇のヒロインの名前です。


浮き桟橋に停泊している高速船(ジェットフォイル)。
高速船は2社が運航しており、トッピーとロケットです。
トッピーは、種子島の方言で飛魚のこと(高速船が海の上を飛ぶように走るため)、ロケットはもちろん種子島宇宙センターがあるためです。


旧港を望む。
入り口の両側に、島の女性島主だった松寿院(篤姫の叔母さん)が築いた、石造り防波堤があります。


沖に向かって左の石造り防波堤。
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種子島への船窓から

2008-07-10 | 水辺の風景
種子島への高速船(ジェットフォイル)の窓から見える風景です。


指宿市の沖合いに浮かぶ知林ケ島。
陸地と、干潮時に現れる砂州でつながっています。
少し飛び出している山が開聞岳。


薩摩半島の南端です。
開聞岳と、右の2こぶらくだのような山が竹山。
海上に突き出た岩峰は俣川洲(またごし)。


日本本土最南端の佐多岬(北緯31度)。
右の小島に灯台があります。
左の建物は展望台。


右に三島が見えてきました。
右側の山頂が白い島が硫黄島。活火山です。
その右に黒島がかすかに見えます。
左の平坦な島が竹島です。


右に屋久島が見えてきました。
九州最高峰の宮之浦岳(1936m)がある島です。
少し雲はかかっているものの、くっきりと見えました。
右に、口永良部島も見えました。


種子島の沖合いに浮かぶ馬毛島。
無人島となっており、開発問題で揺れる島です。


種子島に到着です。

佐多岬を除いて、全て右の窓から見える風景です。
今回のように、いろいろな島が見えることは少ないです。
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イチゴジャム

2008-07-09 | 食べ物
庭の隅に、イチゴを植えています。
熟れてきたので、イチゴジャムを作りました。


木イチゴです。
種類はわかりません。
実は、最初緑、次は赤で、熟れると黒くなります。
つぶつぶの大きなイチゴです。


かごに収穫しました。


なべにイチゴと砂糖を入れ、弱火でコトコト煮詰めます。
イチゴと砂糖の割合は、約1:0.5です。
砂糖は、喜界島産ザラメを使用しました。
煮詰めると、黒ではなく赤くなりました。
アクをすくい取ります。


イチゴジャムの完成です。
酸味と甘みが入り混じった、おいしいジャムができました。
パンにつけて食べたり、ヨーグルト(これも手作りです)に混ぜて食べたりします。
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記録媒体

2008-07-07 | エッセイ
子供の成長記録は8ミリで撮影した。
8ミリビデオではない。映写機で写す8ミリ映画である。
今、映写機は壊れており、再生できない。
その後、ソニーの8ミリビデオを買い、これで記録した。
ソニーは、8ミリビデオの生産をやめるそうだ。
今持っているビデオカメラが壊れたら、これも再生できなくなる。
SPやLPレコードも、プレーヤーがなく、押入れで眠っている。

職場にコンピューターが導入されたとき、記録は穴の開いたテープだった。
自分がパソコンを使うようになったときは、記録はフロッピーディスクだった。
これも、2DDから2HDへと進化した。
MDという記録媒体もあった。
その後CD、DVDへと進化し、この種類も非常に多い。

記録媒体が進化し、大容量になっていくのはいいことだが、古い媒体で記録したものが再生できない、という不都合がおきている。
レコードや8ミリ映画などまさにそうで、日本中に再生できないレコードやフィルムが多く眠っているに違いない。
一つの文化の喪失といっていいだろう。

ずっと変わらない、究極の記録媒体というのはないのだろうか。
「それは紙と墨である」
と書いてあるのを読んだことがある。
確かに、紙が発明されてから今日まで、そして将来も当分この記録媒体がなくなることはないであろう。
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天保山橋

2008-07-06 | 史跡
天保山橋は、鹿児島市の甲突川の河口付近に架かる橋です(河口から3番目の橋)。
元の橋は、昭和10年に架けられたものですが、平成5年の鹿児島豪雨災害に伴う河川改修事業で、新しく架け替えられました。


上流右岸から見た天保山橋。
 橋長:112m
 型式:PC桁
元の橋もPC橋でしたが、橋脚は7本でした。
新しい橋は、水の流れをよくするため、橋脚は3本になっています。


右岸から見た天保山橋。


右岸下流の親柱。
石灯籠の形をしており、プレートには「天保山橋」の文字があります。
親柱や高欄は、元の材料を使用しており、当時の雰囲気を残しています。


左岸下流の親柱にある「昭和十年十月三十一日竣工」のプレート。
元の橋のものを使用しており、近くにその旨の説明看板があります。


石灯籠の形の親柱と高欄。
欄干は、鹿児島の石橋に使用されている溶結凝灰岩でできています。
上の欄干はきれいな円柱状をしており、芸術品を見るようです。
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月照上人の史跡

2008-07-05 | 史跡
NHK大河ドラマ「篤姫」に、僧月照が登場してきました。
鹿児島市にある月照の史跡を訪ねました。

月照は、文化10年(1813年)大阪に生まれ、清水寺の僧侶になりました。
尊皇攘夷派の僧侶として活動し、西郷隆盛とも親交がありました。
井伊直弼の安政の大獄により追われる身となり、安政5年(1858年)11月8日、西郷を頼って鹿児島に来ました。


鹿児島市金生町の鹿児島銀行前にある、月照上人遺跡の碑。
ここは、月照が宿泊していた「俵屋」のあった場所です。

月照は薩摩藩に密告され、日向送りとなりました。
これは、国境で暗殺されることを意味します。
悲観した西郷と月照は、11月16日未明、錦江湾に身を投げて心中を図りました。
西郷は助かりますが、月照は命を落とします。

鹿児島市南林寺町の南州寺に、月照の墓があります。


南州寺の門。


入口に対の仁王像があり、これは向かって左の仁王像。


月照上人墓の碑。


南州寺にある月照の墓。
享年46歳でした。

月照との心中で自分だけ助かったこと、二度の島流しが、西郷さんのその後の生き方に大きな影響を与えたと思われます。
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