前回の記事では、「潜伏キリシタンは表向きに仏教や神道の儀礼を行っていたからといって彼らを仏教徒や氏子と言う人はいない」という話から、「現代の我々も仏式の葬儀や初詣に参加しているからといって、『実は仏教徒なのだ』『実は氏子なのだ』といった評価をすることはできない」と述べた。
要するに、宗教儀礼を行うのにはその宗派・教団への信仰心・帰属意識だけでなく、「コミュニティへの帰属」や「個人 . . . 本文を読む
【質問1】
潜伏キリシタンたちは、従来の宗教的行事を否定することなく仏教系・神道系の行事にも参加していた。では彼らは仏教徒や氏子と言えるだろうか?
おそらくこれに「然り」と答える人はいないと思われる。では次のような問いはどうだろうか。
【質問2】
自身を無宗教だと考えている者も、仏式の葬儀に参加したのであれば仏教徒 . . . 本文を読む
五島へ行くついでに『潜伏キリシタン:江戸時代の禁教政策と民衆』を読み始めた。まだ途中なので結論めいたことは言えないが、今のところ一番興味を引くのは、潜伏キリシタン自体より江戸幕府や諸藩による統制のあり方である。
一向一揆との戦いや島原の乱を経て、江戸幕府が厳しい宗教統制を敷いたことはよく知られている。まず、生まれた子供はどこの寺に所属しているかを「宗門人別改帳」と . . . 本文を読む
マンハイムの認識論に絡めて、「共感」という病、人間性の数値化(世界を数で理解・体系化しようとする試み)などの記事を書いてきた。
ところでこのような認識論は、このブログで長らく扱ってきた宗教的帰属意識とも深く関わっていることは言うまでもない。「宗教的帰属意識」とは、ある宗教や宗派に属しているか否かという意識のことだが、日本という国は自身を無宗教と考える(=宗教的帰属意識を持たない) . . . 本文を読む
竹生島を訪れた時の記事で言及した金田一耕助の「獄門島」は、戦争のために供出された寺の鐘が元あった島へ戻る場面から始まる(厳密に言えば傷痍軍人を装う人物だが)。これは同シリーズ「犬神家の一族」などにも見られる、戦争の傷痕の描写の一つだ(なお、原作が雑誌に掲載されたのは昭和22~23年)。
これだけ見ると、仏教教団は政府によって戦争に協力させられた「被害者」と見えるかもしれないが、実 . . . 本文を読む
旧統一教会と安倍派の関係性の深さを見ていると、「保守」とみなされてきた彼らの行動が、人気取りのポーズに過ぎないものだとよくわかる。端的に言えば、反日感情を持つ韓国由来の宗教と深く結びついて己の政治基盤強化に活用し、しかもそれに蚕食される国民の状況は放置するような行動の一体どこが「保守」なのか?ということだ。
むしろ、あえてそれらしい言い回しをするならば、これこそ「売国」の最たるも . . . 本文を読む
現在「保守」と見なされる人々の発言は、エドマンド・バーク的な保守=人間理性を懐疑するがゆえの漸進主義とは全くの別物である。その一端は、「神道政治連盟国会議員懇談会」なる会合で自民党議員に向けて配布された「同性愛=精神障害」とするような冊子によく表れている。この件について、窪田順生のダイアモンドオンラインの記事に拠りつつ、「保守」とみなされる言説とそれが立脚する価値観について述べてみることにしたい。 . . . 本文を読む
昨日の「既得権益権益への固着と自己責任論の共犯関係」において、日本の共同体の変化(集団就職による上京と会社共同体)と絡め日本人の無宗教に言及した。そこで今回は、そのような視点で私が注目している松下幸之助について触れておきたい。なお、次の段落でいつも書いている注意点を繰り返しておく。
最近の統計によれば無宗教を自認する日本人の割合は8割近くに及び、それが「日本人は無 . . . 本文を読む
昨日は近畿(エル・トゥールル号事件)の話を書いたので、今日は四国について取り上げたいと思う。自分は四国を旅したことは二回あるが、本格的に周遊したのは五年前のことで、「香川→愛媛→高知→徳島→香川」というルートであった。その際、金毘羅山やそこへの巡礼について知る機会があったのだが、それが江戸時代に爆発的ブームとなり、その恩恵(観光業)が讃岐 . . . 本文を読む
数日前に『キリスト教と日本人』を取り上げ、「日本(人)とキリスト教の関わりを歴史的な実態を通して紹介してくれるので、日本人がキリスト教に抱きがちな先入観や発想について相対化してくれる良書である」と書いた。本稿では、その際に書ききれなかった部分を補足しておきたい。
前掲書の第5章の「『キリスト教』ではなく『キリスト道』?」、および第六章「疑う者も、救われる」では、「正しいキリスト教 . . . 本文を読む