現在「保守」と見なされる人々の発言は、エドマンド・バーク的な保守=人間理性を懐疑するがゆえの漸進主義とは全くの別物である。その一端は、「神道政治連盟国会議員懇談会」なる会合で自民党議員に向けて配布された「同性愛=精神障害」とするような冊子によく表れている。この件について、窪田順生のダイアモンドオンラインの記事に拠りつつ、「保守」とみなされる言説とそれが立脚する価値観について述べてみることにしたい。
ここでは何度も指摘していることだが、「同性愛=悪」という観念自体が、この長い日本列島の歴史の中でごく最近のことに過ぎない。具体的には、明治以降近代化を目指す中で欧米的価値観(ソドムとゴモラ的なるもの)を接ぎ木し、その結果同性愛を嫌悪するエートスも輸入されて「イエ」とその存続を重視する観念と結びつき、同性愛を社会から逸脱した悪とみなし、かつそれを排除すべき病と措定するようになったのである(それまでは「衆道」を持ち出すまでもなく、しばしば同性愛行為は行われていたし、それを異常とも認識していなかった。ちなみにそれ以外の要素として、伝統の中に「夜這い」などもあることは以前ネタ的に説明した通りである)。
神道の関係者が、その長い歴史的営為を無視して、様々な神道儀式が新しく作り出された(伝統と切り離された)近代という極めて卑近な時代の価値観を内面化しているのは驚くべきことだが、「保守」の欺瞞とはこのような立脚点からもよくわかる。
すなわち、(自らの主張に都合の悪いことも含め)歴史の営為と真摯に向き合うのではなく、日本が急速に勢力を拡大した、あるいは神道が「宗教に非ず」として特別視され、国家の庇護の元民衆に教育・強制することができた時代を手前勝手に「伝統」として理想視しているのである。
以上を踏まえると、
1.
明治より前の価値観ではなく、明治以降の価値観を伝統とみなせる論理的必然性は一体どころにあるのか?
2.
保守を漸進主義的発想と定義するなら、外部環境に適応するため明治の急速な変化とそれによって生まれたものを保守という観点からどう正当化できるのか
という疑義が当然のように惹起してくるのであり、これを真剣に吟味せずして明治以降の価値観を伝統として語るのは、歴史的無知を曝け出しているか、あるいは「戦前の栄光よもう一度」という意識に基づいた欺瞞を歴史という隠れ蓑を使い騙っているかのどちらかである(後者のより重篤なケースが「江戸しぐさ」。ちなみに、こういったバイアスは誰しも避けることはできないのであり、だからこそ、『戦国武将、虚像と実像』の書評でも触れたように、真摯に歴史の検証が必要なのである。そしてこのように真摯な歴史検証を行わない人々が「保守」やら「伝統」を喧伝しているところに、病の深さがある)。
一般に「保守」とみなされている欺瞞に満ちた言説の一端を紹介したが、そのような言説が政権与党の会合で(無批判にも?)配布されているところに驚愕すべきことだと言える。元の記事ではナチス・ドイツの同性愛者弾圧について触れているが、例えば同性愛を病とみなして矯正しようとする行為は他でも行われており、アラン・チューリングの「治療」とその自殺はよく知られた例の一つだ(これについては、「イミテーション・ゲーム」という映画について、人工知能や人間の定義といったより広い観点で記事を書いたことがある)。
とはいえ、こういった言説については、実のところもっと大きな潮流の一部に過ぎないのではないか、とも私は考えている。それが戦後の経済ナショナリズムとその後退であり、ほぼ同時期に前景化してきた歴史修正主義(小熊英二の書名を借りるなら『癒しのナショナリズム』)である。
これについては非常に分析が難しい上大きな課題なので(新聞や雑誌、書籍の売上などに基づいた言説分析を数十年単位で行わなければならない)、まとめて記事にできる日がくるのかわからないえ(時代こそずれるが、松下幸之助の宗教的言説の背景を担ったラジオ放送とその内容分析はその一端をなすだろう。というのもそこに、檀家としてイベントにも参加するというトータルパッケージとしての帰属ではなく、仏教的思想≒仏教哲学として、人々にある種「非宗教的なるもの」として普及・内面化された可能性がある、と考えるからだ。またそうした特徴を持つ言説が、今度は「経営の神様」から形を変えて説かれることで、ますます非宗教的言説として会社人に認知・普及したということはないだろうか・・・といった話である)。ただ、差し当たって日本人に無宗教が多数派になった流れとして、戦前まで続いた宗教の儀礼化(神道非国教化と強制によるイベント化や仏教の葬式仏教化)、戦後における教育の変化(公立学校で宗教は教えない)・高学歴化(宗教的世界観を信じる割合が減る)・共同体の解体(出稼ぎなど)・核家族化(伝統共同体からの変化)・会社共同体による包摂(極端な例が企業墓)という要素は指摘しておきたい(ちなみに何度も書いているが、教団側の公式発表はあまりに一般市民のアンケートと乖離しており、採用するに値しない。もちろん、「偽史」と同じでその乖離の背景は何なのかという考察材料としては興味深いが)。かつそれを踏まえ、経済ナショナリズムの後退(バブル崩壊)と企業共同体の解体(フリーターの称揚や過労死の問題化など)によってできた空白地帯に、歴史修正主義の言説がある一定のポジションを占めたのではないか、ということだ。
以上のようにして「保守」言説の欺瞞とその構成要素や普及の背景の分析についても展望しつつ、この稿を終えることとしたい。
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