潜伏キリシタンと「なりすまし」:あるいは宗教儀礼と帰属意識の乖離について

2023-05-14 11:30:00 | 宗教分析
【質問1】
潜伏キリシタンたちは、従来の宗教的行事を否定することなく仏教系・神道系の行事にも参加していた。では彼らは仏教徒や氏子と言えるだろうか?
 
 
おそらくこれに「然り」と答える人はいないと思われる。では次のような問いはどうだろうか。
 
 
【質問2】
自身を無宗教だと考えている者も、仏式の葬儀に参加したのであれば仏教徒と言えるだろうか?
 
 
【質問3】
自身を無宗教だと考えている者も、初詣に参加したのであれば神道の氏子と言えるだろうか?
 
 
【質問4】
自身を無宗教だと考えている者も、キリスト教式の結婚式に参加したのであればクリスチャンと言えるだろうか?
 
 
先の【質問1】の答えが自明に否であるならば、【質問2】~【質問4】も同様に否であるはずだ。なぜなら、儀礼と帰属意識が乖離しているという点においては同じだからである。
 
 
しかしどういうわけか、「日本人の無宗教を考える」という問題設定においては、この儀礼の遂行をもって日本人を「無宗教ではない」という言説が散見される。これは極めて不思議なことではないか。
 
 
いや、【質問1】は明確に宗教的帰属がはっきりしている中で信仰を表明すれば生命に危険が及ぶがゆえの「なりすまし」であって、明確に帰属意識を持たず、また「なりすまし」の必然性が薄い現代(戦後日本)の我々とは違う、といった反論が出るかもしれない。
 
 
これに対しては、容易に具体的事例で反駁が可能で、それは「友人の葬儀に参加する共産主義者は、無宗教でもなければ唯物論者・無神論者でもないと言いうるか?」というものだ。そしてこの問いかけからは、儀礼に参加することの別な側面にも気付くはずだ。すなわち、「たとえそれが宗教にまつわる儀礼であっても、それに参加する背景は信仰心や教団への帰属意識のみにあるわけではなく、所属しているコミュニティへの体面や、親交ある人々との関係性に基づく場合がしばしば観察される」ということに(この点で前回の「善意による同調圧力」の記事と連結する)。
 
 
もう少し具体的に説明しよう。今述べた事例において、儀礼に参加した共産主義者を宗教と直結させる事が躊躇われるのは、それが密やかな信仰心に基づいているからではなく、単に「友人の死を弔いたい」という意思の表明であることが比較的自明なためだ。
 
 
もしこれが非常に図式的な理解と感じられるのならば、改めて【質問2~4】に立ち返って考えてみよう。そうすれば、私たちがクリスチャン「だから」キリスト教式の結婚式に参加するわけでもないし、氏子「だから」初詣に参加するわけでもなく、それは「何某かのことを祝いたい」という自分(たち)の感情に基づく行為と表現した方がよほど現実を適切に反映していることを想起すれば十分だろう(もちろん、そういう感情が特定教団の集金に利用されている、といった評価を下すことは可能だが)。
 
 
逆に言えば、「クリスチャンではないから」という理由でキリスト教式の結婚式に参加することを拒絶する日本人は基本いないし(少なくとも私は出会ったことがない)、「仏教徒ではないから」という理由で葬儀への参加を断る人もいない(これも私は出会ったことがない)。むしろそのような表明をすれば、奇異の目で見られるばかりか、所属コミュニティの中で自分の立場を危うくすらしかねないのである(まあ有り体に言えば「変な人」扱いされる。その立ち位置を確立できるとむしろアンタッチャブルな存在になれて楽なケースもあるが、しばしば腫れ物扱いで交流には様々面倒が生じたりするものである。ちなみにこういう付き合い上の慣習的行為の遂行については、以前書いた土産物のことも想起したい)。
 
 
以上述べたように、繰り返すが宗教に基づく儀礼への参加を信仰心や教団・宗派への帰属に直結させるのは誤りで、むしろ祝いや弔いの心情に基づいていたり、あるいは「ご近所づきあい」といったコミュニティ内への所属上の必要といった事情の方がよほど一般的であると言える(これは会社行事とその参加者を想起してみればよい。「みなが積極的に行事の意味を理解し、会社の帰属意識ゆえにそこに参加しているのだ」などと考える方がよほど非現実的で、内心は気が進まなくても立場を失わないために渋々そこにいる人間もいたり、ただ惰性で行事の場に身を置いているだけ、という人間は多々存在するものだ)。
 
 
ゆえに、日本人の無宗教というものについて、「宗教的儀礼はやっているから実は~教徒」といった評価は誤りで、仮に宗教的儀礼に注目するとしても、「宗教的儀礼を様々行っているのに、なぜそれは宗派や教団への帰属意識と結びつかないのだろうか?」という問いを立てる方が、プラグマティックに意味のある考察となるだろう。
 
 
そしてこのような視点に立つと、ようやく1952年の読売新聞の調査で自身の信じている宗教で仏教と答えた人が54.4%なのに対し、「家の宗教」としては仏教と答えた人が89.3%に及んだという結果が特に重要な意味を帯びてくる。すなわち、戦後間もない状態において、すでに所属集団の宗教と個人の信仰心というものが大きく乖離し始めていたことは定量的に観察されるのだ。
 
 
このような理解を前提にすると、戦後における高度経済成長の中で集団就職、大学進学(注1)、都市化、核家族化など諸々の形で伝統共同体からの遊離が進み、それが「家の宗教」からの距離ともなって、「去る者は日々に疎し」の言葉通り、ますます儀礼と宗教的帰属意識の乖離が深まっていく要因となった、と考えられる(注2)。
 
 
このような見取り図をひとまずは描けるように思うのである。もちろん、そのような「宗教的空白」に入り込んでいった教団の一つが創価学会だったことは有名であり、ゆえに「出稼ぎなどで根無し草的になった人々が直ちに宗教的帰属意識を失い、それが無宗教という自己認識に直結した」とまで考えるのはいささか事態を単純化しすぎているように思う。
 
 
しかしながら、そのようにして生まれた空隙を埋めたのが、実は日本特有とも言われる会社共同体ではなかったかと私は仮説的に考えており、その象徴の一つが「企業墓」のような存在だったのではないかと思うのである。
 
 
以上。
 
 
 
(注1)
大学進学に絡めて言えば、大学進学率の上昇=高学歴化もまた、宗教的帰属意識の希薄化を後押ししただろう。というのも、高学歴な人物であればあるほど、宗教に帰属意識を持つ人間の割合が少なくなることが統計調査で判明しているからだ。
 
 
(注2)
例えば比較的最近の話になるが、葬儀屋や仏教教団を通さない直葬が最近増えているが、それが可能になった背景の一つは、経済的衰退もさることながら、葬儀の実施を要求する周囲からの圧力の低下にある。かつて、人の死を弔う行為は共同体として行われるものであり、実際私も小学4年生で大分の親戚の葬儀の時には一度も会ったこともない近所の方から朝餉を振舞われるという経験をしている。こういった「共同体に紐づいた宗教的儀礼」が共同体の解体とともに家族化・個人化し、とはいえ儀礼を実施しなければ後ろ指を指されるという共同体の圧力は残存していたものの、それすら希薄になって今に至る、ということである(もちろん、地域差があることは言うまでもない)。

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