『鬼滅の刃』を読むと、鬼=絆を失った利己的な(自分しか頼めない)存在であり、それは現代人を強く連想させると繰り返し述べてきた。
そう考えてみると、鬼たちの不老や不死の欲求は、いかにも物語的にありふれたものではあるけれども、同時に昨今取り沙汰される「アンチエイジング」を連想させる。
まあ不老不死の欲求は、「皇帝」を名乗り始めたどこぞのオッサンや、生き血を浴びて若さを保とうとしたどっかのオバサンのように歴史上の例も散見されるから、ある意味では鬼滅の刃が現代人を象徴しているというより、現代人が異形の存在になりつつあると表現した方が適切なのかもしれないけどね。
私も小学生の時に親戚の葬式で体感したことがあるが、死というのはそもそも共同体で生きる営みの一環として組み込まれたものであった(だから共同で死を悼むこともするわけだ)。しかし、共同体が解体して核家族化や個人化が進めば、当然死も個人的なものとなる(その意味で昨今家族葬が増えているのは必然的な現象であろう)。
このような死の個人化と、死を極度に恐れ社会からノイズとして排除する傾向が重なり合わされば、とにかく長生きしたい(&若さを保ちたい)という欲求が科学技術の発達とともにクローズアップされ、グロテスクなまでに肥大化しつつある様を今日我々は観察していると言える(健康ブームやアンチエイジングに関する広告がそこかしこに溢れていることを今さら指摘するまでもないだろう)。
鬼滅の刃という作品内では、不老や不死(つまり鬼へのメタモルフォーゼ)は執着や絶望に基づいた血への適正だったが、現実世界では「財力」という身も蓋も無い要素で決まるというわけだ。
そしてこのような現実は、持たざる者たちの怨嗟を生み、さらなる社会の分断と解体を促進する一要素となっていくであろうと私は思うのである。
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