鬼滅の刃:尊厳を破壊された者たちが鬼となる、あるいは共同体の病理について

2021-03-12 11:48:48 | 本関係
以前は「絆を失った、拒絶した人間の行く末」が鬼だと書いたが、「鬼殺隊が利他の象徴で鬼が利己の象徴という図式」もあって、これを強調しすぎると「自意識をこじらせた者やエゴイストが鬼なのだ」、という短絡的な話になりかねないため、少し違う側面も話しておきたい。
 
 
すなわち、鬼とは周囲の人間や共同体の暴力や抑圧によって尊厳を破壊された存在でもある(個人差はあるが)。これは妓夫太郎・堕姫の境遇が最もわかりやすいだろう。まるでジョージ秋山の「アシュラ」が成長したような風貌(そう考えると、本人ではないが、生きながらに焼かれることも共通項だ)をしている妓夫太夫だが、その生い立ちや迫害され続けた様を見て、どうしてそれでも人や絆、共同体を肯定しようなどという発想をするだろうか(逆に言えば、今際の時に肉親との絆を思い出すのは極めて象徴的な描写である)。
 
 
要するに、鬼を生み出すのは単に自我だけの問題ではなく、その環境でもあるのだ(ちなみにここで「凄惨な境遇で誰もが悪人になるわけではない」などとしたり顔で言うのは、「抗生物質を打たなくても結核で生存することはあるからペニシリンは必要ない」と臆面もなく言ってしまう程度には愚かである。つまり、「蓋然性」というものを何一つとして理解していないのだ)。
 
 
このような共同体の病的側面というものは、様々な作品でも描かれる普遍的なテーマの一つである。それは並行してレビューを書いている「ひぐらしのなく頃に」もそうだし、その土台となったアーカイブの一つ、金田一耕助シリーズ(「獄門島」はその好例)もそうである。
 
 
また現実で言えば、金田一シリーズの「八つ墓村」がモチーフとした(鬼滅の舞台である大正にも比較的近い)1938年に起こった津山三十人殺しを想起することも容易い。これは閉鎖的な共同体において村八分状態になった男が、そこで恨みを募らせ村人を殺して回るという「悪鬼羅刹」が如き所業を行った事件であった(ちなみに強く恨みを抱いていない人間はちゃんと逃がしている=完全には狂っていないで犯行に手を染めている、という点も人間の情念・怨念の恐ろしさを物語っていると言えよう)。
 
 
そしてこれを共同体が崩壊して核家族化が進んだ現代化に類例を求めるならば、毒親によって尊厳を破壊され大量殺人に手を染めた加藤智大、あるいはそういった事件を象徴的に描いた映画「葛城事件」を想起することができるだろう(ちなみに共同体の方はすでに急速に空洞化している=包摂機能を失いつつあるのだが、それにもかかわらず「世間」や「空気」は残存して有形・無形の抑圧構造として機能しているのを見る時、日本人の幸福度が相対的に低いのは何ら不思議なことではない、と私は思う)。
 
 
というわけで、本編の描写を仔細に見れば、「鬼滅の刃」は共同体の病理もきちんと描いているという点でそれへの回帰(昔は良かった的な妄想)を素朴に謳ってなどいないことは明白だし、またそれゆえに鬼とそれを生む環境を現代にだけ求めるのはさすがに単純化しすぎだとも言えるのである(なお、ラストの205話はそういう二項対立的見方を否定するものとしても機能するだろう)。
 
 
さて、今回述べたのは、己しか頼まない鬼の姿があまりに現代的に見えるため、本編の矛盾する要素を横に置いてつい「鬼=現代あるいは戦後の日本人、鬼殺隊=戦前の日本人」のような図式で理解したくなるが、それはさすがに危険だということだった。しかし一方で、鬼のメンタリティがあまりに現代の様々な思考様式に類似する部分があるのも事実。次回はそこについて述べていきたいと思う。

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