ドストエフスキー『地下室の手記』より:記録というもの

2006-05-27 01:24:23 | 本関係
少しづつドストエフスキー『地下室の手記』を読み進めているが、含蓄があって非常におもしろい。多少時間がかかろうともじっくり読んでいきたいものだ。

ところで、今日読んだところにこんな一節があった。ブログを書き始めた動機、そして続けている理由と多少似ているところがあるので引用してみたい。


だが、紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると、説得力が増すようだし、自分に対してもより批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくるというものだ。そのほかに、手記を書くことで、実際に気持ちがかるくなるということがある。たとえば、きょうなど、ぼくはある遠い思い出のためにとりわけ気持ちが滅入っている。これはもう数日前からまざまざと思い起こされて、それ以来、まるでいまいましい音楽のメロディーかなんぞのように、頭にこびりついて離れようとしないのだ。ところが、これはどうしてもふり切ってしまわなければならないものである。こうした思い出が、ぼくには数百もあるが、その数百のなかから、時に応じてどれか一つがひょいと浮かびだし、ぼくの気持ちを滅入らせるのだ。どういうわけかぼくは、それを手記に書いてしまえば、それから逃れられるような気がしている。どうして試みてはいけないのだろうか。(新潮文庫版 63p)


ここまで後ろ向きな気持ちで書いてはいないけれども、書くことそのものによる効果はうなずけるところがある。こないだも、CROSS†CHANNELのレビュー見返した時、まるで自分の書いたものではないような、他人が書いた文章のような気がしたものだ。おそらくそのようにして自分の考えが異化されるということもまた、文章という形で自分の感想などを残す重要な意義の一つなのだろう。

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