なぜ「真理」には到れないのか?:観測者の限界と、証明された法則からの距離感

2022-04-07 17:00:00 | 感想など



「帰納と演繹」なんて言うと、いかにも日常から乖離した抽象的思考に思われるかもしれないが、そもそも、私たちが目の前に出される料理を何の疑いもなく口にしたり、「今日と同じような明日が来る」と考えさえせずに日々を繰り返せているのは、これまでの経験則が明日も通用する、という帰納的発想が内面化されていることによる。


このような「ルール」が証明されていない以上、演繹的思考とは言えない。実際のところ、時代や立場によっては「毒味」なる行為が行われてきたし、昨日まではある人と普通に行われてきた会話が、次の日からは「スパイ行為」とみなされるような事態も生じてきたのであった(ちなみに、私は以前から極限状況でもこれまでと同じように振る舞えると想定する思考を批判的に取り上げてきたが、それは今まで自明視してきた諸々の土台が液状化することの恐ろしさを理解していないからであり、単に人間理性への懐疑だけに立脚しているのではない)。


前置きが長くなったが、冒頭で紹介した動画では、演繹・帰納的思考と、それぞれの限界について述べたものである。そこでも説明されているが、「証明されたものが100%の真理であるというのは厳密には正しくない」、「とはいえ、それをもって証明された法則が全て無意味とか疑わしいと考えるのは違う」と言える。


つまり、証明された法則というのは、「少なくとも現状の世界においては反復可能(反復の蓋然性が高い)なルール」として措定するのが妥当である。


一方で、そのような性質(限界)をそのまま全てを疑うことへと短絡させるのは問題が多いため避けるべきで、あくまでカッコに入れて一定の距離を保つことが重要と言えるだろう。


まあこういう話からは、「真理などを求めず、ただusefulなルールを引き出せばよい」といういかにもポストモダン的な思考態度になるわけだが、逆に言えば工学的な知とその重視がある一定の必然性の上に生まれてきたことを理解する上でも、今回のような動画内容は有益であると述べつつ、この稿を終えたい。

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