2010/11/16
単なる知識のフラグメントか「学問」という名のファッションの一部になるだけ。根源的なパラダイムの問題。観測者の限界。世界を精密に観測し続ければ、不明な部分はなくなっていき、いずれは世界の「真理」に到達できるという考えが否定される。シュレディンガーの猫。見ているものがそのまま「真理」なのかもしれないし、あるいはそうでないのかもしれない。考古学などでいくらモノが事実だとしても、統計学などでいくら数字が事実だとしても、それを操作し解釈するのは人間だ。
~が死んじゃった。生き物はみんな死ぬ。人の感情を読み取って同情の言葉をかけろと突っ込む感じ。正しい。表面だけでも合わせないと顰蹙買うで(ムーたち)。本当に私が話したいのはディスコミュ。その子が言ってるのは「なんで~は死ぬのか」ではおそらくない。死ぬことは知っている。壊れないとお墨付きのある商品が壊れたと嘆いてるわけではない。なぜ、今、他でもないこの私の~なのか?と問うているのだ。これには誰も答えることができない。偶然性。疫病、天災、事故。神の罰、天寿。法則性を自明だと思う→オカルトの合理的解釈。ひぐらしの鷹野の話、沙都子。家族→紀子の食卓。なぜ、信長が天国に行くと聞いて驚くのか。その基準は一体誰か決めたのか?
<偶然性2>
誤解しないでほしいか、私はただ思考を放棄して追認せよと言っているわけではない(ローティの発言84P)。ウ゛ィトゲントシュタインは「語りえぬ~」と言ったが、重要なのはそれでも私たちは考えてしまうことに自覚的であるか否か、という事実であるように思える。宗教と思索。話を戻そう。実はその子の嘆きは、合理性・論理性を越えた、世界のはらむ偶然性に~している。それを単に個別の問題として処理することも、あるいは悲しみ対してただ(表面的な)同情を示すのも、偶然性の問題を回避という点では変わりない。
<境界線の恣意性>
いい人の問題→誰にとっての?何にとっての?境界線の恣意性。「ゼロサムゲームしかありえない」は極端にしても。解決策として博愛主義は無効。無差別連続殺人を犯すものと被害者。前者を擁護すれば後者からはそっち側だと思われる[この点特に文脈不鮮明。構造解析や説明がexcuseと受け取られてしまう、ということか?]。人間と動物の境界…自然保護。マラリア蚊やツェツェバエは(過去ログ)?彼らは人間に害を与えようとの意思でそうしているのではない(天使二丁拳銃)。「害虫の誕生」はイメージの歴史性を教えてくれる。「いい」って何?病気でクロレラ→細胞が活発に動いて増悪を促進。枠を大きくすれば、あるいは枠をなくせば一気に解決すると思うのは単にナイーブなだけ。
<栗生楽泉園本妙寺>
いいものを摂取し続ければよくなるはずだ、などという見解は成立しない。病人クロレラ摂取、細胞活発化で増悪を促進。
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