オーダーメイドのスーツで身を固め、ハイヤーで銀座に乗り付け、すきやばし次郎に毎週通う人の姿を見て、「これが現代日本人の典型的姿である」などと考える人は、おそらく皆無だろうあまりにカリカチュアし過ぎて、もはや虚構の世界の話に聞こえてくるかもw)。
では例えば、『枕草紙』や『源氏物語』を読んで、そこに描かれる登場人物たちのあり様=平安時代の人々であると考えるのはどうだろうか?改めてそのように問われると、そこで描写されている人々のほとんどは王朝貴族たちでしかなく、庶民の姿はもちろん武士の姿も描いてないし、さらに言えば、所詮はインナーサークルで回し読みするための同人誌的なものなので、血なまぐさい話などは慎重に排除されている・・・ということに気付くだろう。そのような表現されなかった・意識されなかった部分を紹介した著作が、冒頭に挙げた『わるい平安貴族』で、受領たちの横領行為や、陰謀による殺し殺されの血なまぐさい出来事が様々紹介されている。
しかし、学校教育においては、先に述べたような作品を「これぞ日本古典文学の傑作でござい!」と提示するだけで、そこから世界観を広げることも特にしないので、人々の平安時代というものへの妄想がそれを軸に形成・固着してしまうわけだ(もちろん、歴史学習の中で「六道絵」などを記憶している人は、王朝文学など所詮は「上級国民」の世界を都合よくしか描き出したものに過ぎない、ということは多少なりとも意識してきたのではないかと思う。それこそ、ヴォルテールの喝破した「歴史は偉人たちの伝記に過ぎない」という言辞が想起されるところだ)。
まあ時代の特徴に限らず、ある物を完全な形で認知することはそもそも不可能なので(例えば個々人の頭の中はわからんし、わかったところでその総計がイコール時代を指し示すわけでもない)、こういった偏りは大なり小なり抜きがたく存在するものだが、それにしてもただ古典文学を読んで「日本人の心を学ぶ」だの「日本の文化を学ぶ」だの言ってるのはずいぶんとバランスの悪い話だし、少なくとも当時の時代背景が浮かび上がるような説明は付すべきだろうと思う(その観点で言えば、200年ほど時代がズレるとはいえ、災害によって荒廃した社会を描き出した鴨長明の『方丈記』などを列記するのもおもしろいのではないか)。
とはいえ、過去の正確な社会像なんてどうでもええやん!と思われる向きもあると思うので、ちょっとこちらの動画を紹介したい。先に述べたような見地に立って話を聞いていると、「『男性は女性に奢るべき』・『年上は年下に奢るべき』という観念はもはや通用しない」という記事でも少し触れたが、自分たちの社会構造や歴史への無理解、例えば「専業主婦」やら「終身雇用」は極めて短い時期の特殊なシステムに過ぎず、また「皆婚時代」も江戸以前と比べれば極めて特殊な状況であったにもかかわらず、それらをあたかも伝統であるかのように錯覚してしまったがゆえに、社会的理想像やバブル崩壊後の改良へ向けた取り組みもまた、必然的に誤らざるを得なかった30年を日本は歩んできた、と言えるのではないだろうか。
まあ「伝統が大事」と言う人間ほど、過去の複雑な要素に目を向けず、ただイデオロギーを騙るために歴史を利用していたりするから始末に負えないんだが(その最たる例として、マルクス主義史観や優生思想を挙げることができる。このあたりは、かつての日本の経済成長をその「勤勉な国民性」といった抽象的な自己像や自助努力に求め、人口ボーナスや冷戦構造といった環境要因を無視するような傾向も同じである。これについては、窪田順生「『大阪万博で日本を元気に』とか言っているうちは、日本が元気にならないワケ」などを参照)。もっとも、仮に「正しい自己像」なるものをなるだけ正確に認知・共有し、それ元に改革をしようとしたとて、既得権益側の反発などはやはり起きただろうから、改革が成功したかはわからんけどね・・・
というあたりで、今回はこれにて終了。
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