共感という語の濫用:個人の不在と内省の欠落

2008-01-23 15:14:39 | 抽象的話題
これまで、様々な形で共感という言葉とその使用について述べてきた(フラグメント19なぜ言葉を曖昧にするのかなど)。この言葉をゲームや本の内容に対してさえ平気で使っているところに日本人の親和性の高さが端的に表れているが、その事実(親和性の高さ)を言葉の使用者が自覚しているようには思えない。この無自覚さは一体何に基づいているのだろうか?思うに、西欧の「個人」を理想と仰ぐことで集団の要素が隠蔽されてしまい、それ(集団の要素)が実は濃密に残存し続けていることに個々人が気付いていないのだ。


いや、この説明は正確ではない。日本に集団を尊ぶ傾向があることは誰もが知っているし、それが個人主義に対する言わばホンネとして今も存在し続けていることも理解している。しかしながら、それは「世間」や「空気」(外的要因)によって強制されるものに過ぎず、自分自身はそのような傾向と無関係だ、と考えているところに大きな誤解があるのだ。


実は、そういった社会で生きる個人個人に、強い同一化傾向が内在している。「共感」なる言葉の濫用こそ、その表れに他ならない。今現在の自分の感覚すら、あやふやでうまく説明できないことは少し考えればわかるのに(数十年を共にしてきた自分のことでさえ、である)、たかだか数十分・数時間の映像や数百ページ程度の文字を通してそこに表れる人物たちに共感できると平気で言えるのはなぜだろうか?


その答えが、無意識的な同一化傾向に他ならない。
他者が自己と同じだと見なすことに何の疑問も持っていないから、様々な対象に共感の語を使えるのである。そこには、自分自身を省みず、かつ他者の特殊具体性にも注意を払っていない(相手を尊重していない)、という事実が浮き彫りにされている。要するに、共感という言葉の濫用には、日本人が「個人」というものを上辺しか理解しておらず、またその事実さえも自覚していないことが如実に表れているのである。


では、そういった無意識の同一化傾向はどんな問題をはらんでいるのだろうか?日本における個性の尊重のあり方とも絡めつつ、次回それについて述べてみたい。


(追記)
ただし、私が西欧と全く同じような個人主義の中に生きている、と言うつもりはない。しかし少なくとも、私が相手を尊重したい場合に、共感という言葉を使わないことだけは確かである。

また、かつては(少なくとも今よりは)社会が閉鎖的だったためそういった同一化傾向が合理的であったという事情や、全く異なる文脈のものを自分達に合うように作り変える能力(?)が、様々な進歩・発展をもたらしてきたことを考慮する必要がある。さもなければ、「個人主義=善、全体主義=悪」ないし「西洋=善、日本=悪」という図式に絡め取られてしまうだろう。それは私の意図するものではない。
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