感想:原武史『大正天皇』

2006-11-19 20:37:38 | 本関係
◎私は大正時代の史料の性質などについてほとんど無知である。それゆえ、著者の史料の選び方などを批判する能力を持っていない。その点を注意した上で読んでもらいたいと思う。


(概要)
朝日選書 2000年刊。明治天皇は明治維新~明治時代という日本史のターニングポイントに君臨した人物なこともあって、飛鳥井雅道の『明治大帝』をはじめ多くの関連書物が存在する。また昭和皇に関しても、二次大戦や象徴天皇制など様々な問題と絡んで、何よりその時代的な近さゆえに多くの文献で扱われている。しかし一方で、大正天皇について我々が持つイメージは「病弱」といったまことに貧困なものでしかなく、明治・昭和両天皇という二大巨頭に挟まれた存在として等閑視されているのが現状である。そこで大正天皇の生涯を追っていき、その実像を明らかにする。


(感想など)
私は大正天皇について「精神を病んでいた」という(まさに筆者の指摘するような)歪んだイメージしか持っていなかったので(※)、実際の言動や行動の描写を中心にしてその実像に迫るという書き方は読みやすかった。


その中で、天皇(もちろん正確には嘉仁皇太子だが、これで統一する)が幼少の頃病弱であったこと、またこらえ性や協調性がなく課された様々な授業(むしろ帝王学と言った方が適切か)に耐えられなかったことを述べている。その成績不振ぶりは学習院中退ということに表れているのだが、そのような「詰め込み教育」に耐えられなかった天皇が、地理・歴史の学習を名目とした(九州・四国・北海道など全国的な)地方見学によって生き生きとし始める部分は非常におもしろい。彼は、神格化され高遠な存在として振舞った明治天皇とは対照的に、疑問に思ったことを一般民衆にも遠慮呵責なく聞いたというし、そればかりでなく、そういう形での民衆との接し方を望んだ天皇は大げさな送迎や細かいスケジュールを嫌い、気が向いたらふらっと出歩くこともあったとそうだ。このあたり、儀礼的なものを嫌う奔放な性格が見事に表れている。しかし当然というか、天皇になった彼にそのような自由は与えられなかった(彼なりに抵抗はしたのだが)。厳密なスケジュールと厳重な警戒による行幸、儀礼や書類の処理に忙殺され、閉鎖空間の息苦しさと過密スケジュールの中で徐々に身体を病んでいく。後は我々のよく知る「天皇=病弱」というイメージが新聞などを通して民衆に広まるとともに、昭和天皇(裕仁皇太子)が代わりを務めるようになる(後述)。そして昭和の始まりとともに、大正天皇は、短かった大正という時代ごと意識の隅に追いやられてしまったのであった。


大正天皇の悲劇とは、上のような性格を持ちながら「現人神」天皇という地位に就かなければならなかったことにあると言えるだろう(明確には書いていないが、著者の書き方にもそのようなトーンが含まれている)。とはいえ、大権を持つものの行動や思考は多くの人に影響を与えるのも事実であり、本人の資質のなさを思って感傷的になるだけならば、少々おめでたすぎるというものだ(なお著者は、臣下に翻弄される大正天皇の様を冷静に批判している)。やはり「万世一系」という継承のあり方の是非などを多少なりとも考える必要があるのではないだろうか?とはいえ、地位に翻弄された一人の人間のあり方として興味深い内容と言える。


また、本書で特に興味を惹いたのは、(大正天皇の)皇太子時代の地方見学が民衆に及ぼした影響であった。すなわち、それまでは明治天皇という遠い存在を現人神としていたのが、気さくに質問する皇太子の登場で状況がかなり変化したのである。皇太子時代の行為とはいえ、いったん身近に感じられた皇太子は、天皇になっても明治天皇と同じように距離のある存在ではなくなっていた。そしてその傾向は、民衆も参加しての万歳三唱や大正天皇を撮った活動写真(映画)を通じた一体感の創生をもって強められたという。このように民衆との距離を縮めたり(=地方見学)、一体感を強めたりする行為が、前に問題にした手紙の中での「高遠な何かを守ろうとするより、身近な存在をいたわるような感情」に繋がってくるのではないかと思われる(皇太子時代の身近さをベースにした天皇観?)。とすれば、その基礎となったのが大正天皇の皇太子時代の地方見学とその際の立ち居振る舞いは、その端緒として注目すべきものであると言えるだろう。


大正天皇の実像だけでなく、天皇のあり方という点でも本書は非常に参考になった。次は、武田清子の『天皇観の相剋』あたりを読んでみたいと思う。


ところで、「精神を病んでいた」というイメージはどこから来たのだろうか?本書では、大正天皇の病状報告(脳に問題が…といった内容)が民衆に及ぼしたイメージ的な影響がその原因だと述べている。おそらく発端はその通りだと思われるが、そのイメージが定着・増幅される十分な要因が存在したと私は考えている。それが、本書で何度も指摘されている奔放な発言の数々だったのではないだろうか。健常な人の発言として聞いていれば、天皇のそれは奔放さやフレンドリーさを表すものとして解されていたと思われる(始め質問された人たちは驚いたが、後には天皇のそういった傾向が意識されるようになっていたという)。しかしいったん天皇が「脳を患って死んだ」というイメージが植えつけられると、それまでの発言の数々が「脳を患った者≒精神を病んだ者」の言葉として認識されるようになったのではないだろうか。こうして、大正天皇=精神を病んでいたというイメージが醸成されたのではないかと推測される。

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2 コメント

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ご無沙汰してます (ぺまっちょ)
2006-11-20 14:36:01
お元気ですか?

こちらは北京の片隅で何とかどっこい生きています。
旧ロシア圏の人と一緒に住んでいます。
最初は資本主義国と共産主義国との間で冷戦が起こりかけましたが、今は雪解け。

大正天皇、興味深いですね。うちの実家にある掛け軸の文字を書いた人が大正天皇の書道の先生をやっていたことがあったらしくて。
日本に戻ったら読んでみたいですな。
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こちらこそ (ボゲードン)
2006-11-20 22:47:04
ご無沙汰してます。

冷戦の話おもしろそうですね。機会があれば色々とうかがいたいものです。
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