昨日の記事でフラットアーサーを取り上げたが、そこでは「0か100」で物事を考えてしまう=穏健な懐疑主義の不在、そして「実感信仰」というものに基づく危険性と視野狭窄を指摘した。
これについては、結局のところ「自分なりに論を尽くして考えたものが、『お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな』という風に否定され、むしろ自分という存在の矮小さを思い知る」という経験をあまりしたことがないのに起因するんじゃないだろうか、などと想像したりする。
というわけで、いくつか具体例を掲載しておくこととしたい。妄信しないことの重要性、自分たちが正当と思う言説の脆弱性、そしてなぜ穏健な懐疑主義に到る道など、様々な実りがあるものと思われる(こういう歴史を知っていれば、実用性一辺倒ではなく、一見何の役に立つのかわからない基礎研究がいかに歴史を動かしてきたか=ブレイクスルーには重要か、といったことも想起されるのではないか)。
こういった先人たちの営為を知った上で、それでも人間の必謬性に思いをいたしながら、永遠の微調整を行い続けること・・・これが、「社会を生きる」ことではないかと少なくとも私は思うのである(なお、こういった知見を知れば知るほど、私は「昔は良かった」という言葉を安易にも吐ける人間は、過去の暗部を見ようとしない、あるいは単に無知蒙昧の輩なのではないか、と常に疑わしい目で見ずにはいられないのである)。
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