「不快な作品こそ、自らの嗜好を知る絶好の機会となる」という話は以前からしているが、「涼宮ハルヒの憂鬱」はそんな作品の一つである。
その原因については、かつて「涼宮ハルヒと傍若無人さへの怒り」という記事でハルヒの自分勝手さにイライラするからではないかと書いたが、今思えばそれは非本質的な問題である。これについて少し掘り下げて考えてみることにしよう。
そもそも涼宮ハルヒシリーズの魅力とは何だろうか?確信犯的に詰め込まれまくった「萌え」やSFの要素?なるほどそれもあるだろう。しかし大きいのは、涼宮ハルヒという破天荒なキャラに振り回されるドタバタ劇であることではないか?もちろん、これでは単なる学園モノとか学園ラブコメにしかならない。しかしここで、ハルヒに神的な属性(設定)が理由なく付与されることで、一気に話が大きくなっているところがおもしろいのだ。というのも、単なる一女子高生の思いつきに世界が振り回されてしまうのだから。余談ながら言っておけば、この「世界が振り回される」とは「世界中の人間が」ということではない。その意志(?)が世界の法則さえ変えてしまうという意味で、世界そのものさえ、彼女に振り回されているのだ(まあ世界に人格があるかのように言えば、だが)。
要するに、ハルヒの傍若無人さは物語を動かす原動力であり、これなくして涼宮ハルヒの世界は成り立たないと言ってよく、その意味で私の不快感は本質的な問題のように見える。しかしそれなら、最初に読んだ時点で拒絶していてもおかしくなかったはずだ。まあここにはなぜか第三巻にあたる『涼宮ハルヒの退屈』から読み始めたという事情なども関係してはいるのだが、本質的には「この世界がどういう方向に行くのか」については多少の興味があったからのように思う。「憂鬱」、「溜息」、「退屈」の三つを読んだ段階で浮かんだのは、「なぜそうまでしてこの世界を存続さえなくてはならないのか?」という疑問だった。
「5/25」という記事でも言及していることだが、ハルヒごときが動かす世界などとっとと滅べばいいじゃないか?というわけだ。ここには明確に私の嗜好が見て取れる。というのも、作中人物の立場にしてみれば、平穏な(?)日常に涼宮ハルヒというトリックスターが突如現れたわけで、何とか平穏な日常を維持(≒カタストロフを回避)すべく東奔西走するのは何ら不自然ではないからだ(自分が一番高く評価している「溜息」は、まさにそういう方向性で書かれている)。つまり私の要求は必然性を無視したものなわけだが、それは「5/25」で書いたような「ハルヒのような傍若無人な人物への怒り」というよりはむしろ、「トランスオクシアナ」で述べた世界のあり様に対する願望に基づいていると考えられる。まあ要するに、世界には正しくあってほしいという願望なわけだが、それがデタラメな世界の否定へとつながるわけだ・・・なんて言うと誤解を生みそうなので説明を加えておくと、荒唐無稽なギャグや世界観は非常に好きだし、デタラメな世界やそれを守る行為を全て否定するつもりもない。ただし前者は「確固たる準拠枠があるから」とも考えられるし、また後者については「ぼくらの」のような背景の説明や心理描写(葛藤etc...)を要求するのではあるが。世界を存続させるべきというのは勧善懲悪と同じくらいに非自明な話なため、理由説明が必要なのだ(と書くとほぼ間違いなく反論がきそうだが、そこにある種の自明性への埋没、共犯関係を私は見出すという話を次回する予定)。
もっとも、人によってはこう言うかもしれない。「でも涼宮ハルヒなんて荒唐無稽なギャグ漫画でしょ」と。なるほど理解できる意見だが、「涼宮ハルヒの消失」の描き方・受容のされ方を見ると、私としてはどっちつかずな印象を受けるのだ(普段「萌え」を記号・アーカイブとしてネタ的にばらまいておきながら、肝心なところではキョンと一緒にいたいという〇〇の願望をベタに描いたりする)。逆に言うと、「涼宮ハルヒちゃんの憂鬱」はギャグの方面で完全に振り切れているから全く問題がないと感じるし、むしろかなり気に入っている作品の一つである(五巻なんか「涼宮ハルヒの力でみんながいきなりチビキャラ化」って一体どんな状況だよ!とw)。
以上述べたように、「涼宮ハルヒ」への不快感は私の嗜好(志向)と作品の中途半端な性格に起因すると考えられる。次に取り上げるべきは、全体の転換点として、あるいは選び直し(再帰的行為)として重要な「涼宮ハルヒの消失」だが、現時点で記事がかなりの分量になってしまったので、次回に譲ることとしたい。
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