前回、本来人知を超えたはずの世界が合理的に理解されており、しかもその事実があまり自覚されていないことを指摘した。そしてまた、その自覚が様々な発見に繋がるとも述べた。
ところでそういう話をすると、「それを言っちゃあおしまいだ」とか「夢が無い」と言う人がいる。しかし本当に「おしまい」なのだろうか?どうもそういう発言の背景には真―偽の二元論(真=正義、偽=悪)が無意識の前提としてあるのではないかという気がする。もちろん、真か偽かを明らかにするのは大事な、非常に大事なことだ。しかし、実はそこから先を考えていくことも重要なのである。
例えば歴史なら、ある虚構に対して「それは史実でない」と言うのは比較的容易だ。しかし二元論(この場合「史実と虚構」)でしか歴史を見ないならばそこで終わりだ。そこからもう一歩踏み込んで、「なぜそういう虚構(認識)が生まれたのか」、「その虚構が与えた影響はどのようなものか」を考えることによって広がりが生まれるのである。
史実に反する虚構が生まれる原因としては情報不足や願望の投影など様々なものが考えられるが、そこから為政者たちの意図(情報操作)や民衆の思考様式が見えてくることもある。
セルジューク朝(1030~1194年)とオスマン朝(1299年~1922年)の系図の問題を例として考えてみよう。系図はそれぞれも王朝が創始されて時代が経ってからのものであり、王朝創世期と同時代に書かれた史料と比較した場合にはかなり多くの誤りが含まれていることが判明する。まずそのこと(系図の誤り)を確認する作業は非常に重要である。しかしここで、単に「史実に反する」と斬り捨てたらこの先はない。なぜそのような史実に反するものが書かれているのか?そう疑問を持つことが大事である。そこでよく分析してみると、実は系図の誤りは(ほぼ間違いないく)作為だとわかる。そう言える理由は、セルジューク朝では代々末子相続がなされていて、一方オスマン朝では代々長子相続がなされてきたかのように系図が作られている、つまりある一定の法則性に基づいてるからだ。しかし、この法則性を単に作為と考えるだけでは不十分で、「なぜそのような作為がなされたのか?」という問題を次に考えなければならない。そこで分析を加えてみると、まずセルジューク朝では末子相続が理想であり、オスマン朝では長子相続が理想とされてきたのだという推測が成り立つ。そうでなければ、それぞれ末子、長子相続でわざわざ統一する必要性が無いからだ。さらに言えば、(北アジアの)遊牧民は末子相続が基本であったとされているが、その傾向が12世紀中近東のセルジューク朝(の王族や部族たち)では続いており、一方トルコまで移動して年代を経たオスマン朝の王族や部族社会では末子相続ではなく長子相続が正統なものと見なされるようになっていた、と考えることができるのである。
また三国志演義が小説であるとして斬り捨てることは簡単だが、曹操を悪玉とし劉備を善玉とする見方などがどのようにして生まれてきたのか、そしてそれが社会にどんな影響を与えたのかといった視点で考えた方がより広い視野を獲得することができ、当時の社会をより立体的に見ることができるようになるだろう。
確かに史実―虚構を選定することは大事だ。しかし今述べたように、その虚構がどのようにして生まれてきたかを考えることで視野が大きく広がり、当時の理想や思考様式、さらにはそれらがどのように変化したのかが透けて見えてくるのである(historiographyなどに繋がる)。誤りを誤りと指摘することは重要であるし、そこまで難しくはない。しかしそう指摘して終わるのではなく、「なぜ誤りが生まれるのか」「なぜ誤りが存続しているのか」といったことを考えれば物事がより立体的に見えてくるのではないかと思う。
そしてまた、誤りに対して「なぜ」という疑問に対して耳を傾けることは、自己にとっては不快感や違和感の原因を究明する態度に繋がり、作品ならば内容に違和感を覚えたとき「作者が何を言おうとしているか、それをどのように表現しているか」を考える姿勢に繋がるのだが、これについては次回以降「うみねこのなく頃に」の推理編、及び沙耶の唄と説明不足の問題等で再び述べようと思う。今はただ、「違和感の萌芽」を見逃さないことがとにかく重要であると主張するに留めておきたい。
ところでそういう話をすると、「それを言っちゃあおしまいだ」とか「夢が無い」と言う人がいる。しかし本当に「おしまい」なのだろうか?どうもそういう発言の背景には真―偽の二元論(真=正義、偽=悪)が無意識の前提としてあるのではないかという気がする。もちろん、真か偽かを明らかにするのは大事な、非常に大事なことだ。しかし、実はそこから先を考えていくことも重要なのである。
例えば歴史なら、ある虚構に対して「それは史実でない」と言うのは比較的容易だ。しかし二元論(この場合「史実と虚構」)でしか歴史を見ないならばそこで終わりだ。そこからもう一歩踏み込んで、「なぜそういう虚構(認識)が生まれたのか」、「その虚構が与えた影響はどのようなものか」を考えることによって広がりが生まれるのである。
史実に反する虚構が生まれる原因としては情報不足や願望の投影など様々なものが考えられるが、そこから為政者たちの意図(情報操作)や民衆の思考様式が見えてくることもある。
セルジューク朝(1030~1194年)とオスマン朝(1299年~1922年)の系図の問題を例として考えてみよう。系図はそれぞれも王朝が創始されて時代が経ってからのものであり、王朝創世期と同時代に書かれた史料と比較した場合にはかなり多くの誤りが含まれていることが判明する。まずそのこと(系図の誤り)を確認する作業は非常に重要である。しかしここで、単に「史実に反する」と斬り捨てたらこの先はない。なぜそのような史実に反するものが書かれているのか?そう疑問を持つことが大事である。そこでよく分析してみると、実は系図の誤りは(ほぼ間違いないく)作為だとわかる。そう言える理由は、セルジューク朝では代々末子相続がなされていて、一方オスマン朝では代々長子相続がなされてきたかのように系図が作られている、つまりある一定の法則性に基づいてるからだ。しかし、この法則性を単に作為と考えるだけでは不十分で、「なぜそのような作為がなされたのか?」という問題を次に考えなければならない。そこで分析を加えてみると、まずセルジューク朝では末子相続が理想であり、オスマン朝では長子相続が理想とされてきたのだという推測が成り立つ。そうでなければ、それぞれ末子、長子相続でわざわざ統一する必要性が無いからだ。さらに言えば、(北アジアの)遊牧民は末子相続が基本であったとされているが、その傾向が12世紀中近東のセルジューク朝(の王族や部族たち)では続いており、一方トルコまで移動して年代を経たオスマン朝の王族や部族社会では末子相続ではなく長子相続が正統なものと見なされるようになっていた、と考えることができるのである。
また三国志演義が小説であるとして斬り捨てることは簡単だが、曹操を悪玉とし劉備を善玉とする見方などがどのようにして生まれてきたのか、そしてそれが社会にどんな影響を与えたのかといった視点で考えた方がより広い視野を獲得することができ、当時の社会をより立体的に見ることができるようになるだろう。
確かに史実―虚構を選定することは大事だ。しかし今述べたように、その虚構がどのようにして生まれてきたかを考えることで視野が大きく広がり、当時の理想や思考様式、さらにはそれらがどのように変化したのかが透けて見えてくるのである(historiographyなどに繋がる)。誤りを誤りと指摘することは重要であるし、そこまで難しくはない。しかしそう指摘して終わるのではなく、「なぜ誤りが生まれるのか」「なぜ誤りが存続しているのか」といったことを考えれば物事がより立体的に見えてくるのではないかと思う。
そしてまた、誤りに対して「なぜ」という疑問に対して耳を傾けることは、自己にとっては不快感や違和感の原因を究明する態度に繋がり、作品ならば内容に違和感を覚えたとき「作者が何を言おうとしているか、それをどのように表現しているか」を考える姿勢に繋がるのだが、これについては次回以降「うみねこのなく頃に」の推理編、及び沙耶の唄と説明不足の問題等で再び述べようと思う。今はただ、「違和感の萌芽」を見逃さないことがとにかく重要であると主張するに留めておきたい。
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