毒書会報告:MMT理論、共産主義、全体主義

2021-01-01 12:30:30 | 本関係

年末に毒書会で扱ったステファニー=ケルトンの『財政赤字の神話 MMTと国民のための経済の誕生』について、忘れないうちに簡単な報告をしておこうと思う。

 

この本を一通り読んで一番印象的だったことは、MMT理論そのものよりもむしろ、You TubeのMMT関連動画で語られるMMT理論とそれに対する批判が、ともにしばしば表面的で不毛な空中戦の様相を呈しているらしい、ということだった(この理論そのものについての私見は、それだけで結構な分量の記事になってしまうのでまた別の機会に述べるが、貨幣や税収に関する見解は非常に興味深いと思う一方で、この理論に基づく政策は結局極めて多くの足かせがつくことにより、それほどドラスティックな変化を生み出せないのではないかと考えている)。

 

これについては本書末尾にある井上智洋の解説が非常に端的に状況をまとめているが、MMT理論とは「完全無欠の体系的理論」などではもちろんなく、そこには少なくとも「事実」=断定できること、「仮説」=検証が必要なもの、「提言」=この理論からの具体的な政策提案、の三つのレイヤーがある。こう書くと何やら大仰な印象を受けるかもしれないが、そもそも古典派経済学、歴史学派経済学、マルクス主義経済学、ケインズ経済学(さらにはオールドケインジアンとニューケインジアン)といった具合に経済理論にも様々あり、その可能性や問題点も歴史的に様々見られてきたわけで、むしろ井上のような視点こそが理論を検証する上で当然の態度と言える。

 

しかしそれにもかかわらず、言葉だけが独り歩きしてそれを完全無欠の特効薬のように喧伝したりする人間もいれば、そのおかしな言説に噛みつく人間もいるというのが不毛だというわけだ。この現象を見れば、人によってはマルクス主義とそのシンパ、及びそれへの批判的言説を思い出す人もいようが、まさしくそういう様相も呈しており、歴史は繰り返すものだなあ(人間は進歩しないものだなあ)とある種の感慨を覚える今日この頃である(言うまでもないが、原典に触れればそれがホーリーバイブルのように我々に真理を指し示してくれる、などとナイーブな話をしているわけではない)。

 

で、なぜにこの毒書会の話をここで書いたかと言うと、様々なYou Tubeでの解説動画を紹介・お勧めしてきた手前、それを視聴する上での基本的態度についても一度言及しておくべきだと考えたからだ。You Tubeの動画は視聴者の興味やその維持も勘案して、相当にわかりやすく加工・デフォルメされているケースはしばしばある。このような特性自体を批判することは容易だが、一方でそれならそういう動画に触れない人が、その元になっている諸々の参考文献に遍く触れているかと言えば、そんなことは全くないだろう(この世界の情報量とその更新速度はあまりに早すぎて、個人がそのようにして処理できるキャパを容易に超えているからだ)。

 

とするなら、人がある事象に興味を持つ「きっかけ」としてYou Tube動画は非常に有効であり、重要なのは、そもそも情報に触れる前提として「どこかでまったき真実が語られている」といった妄想を捨てる=穏健な懐疑主義的態度を維持すること、収拾した情報をカッコに入れる慎重かつ謙虚な態度を持ち続けること、それに基づいて複数視点で検証する意識を持ち続けること、であると言えるだろう(こういう態度がないと、例えばオールドメディアへの不信から「ネットには真実が書かれている!」と妄信するような人間へと容易に堕してしまうわけだ)。

 

毒書会では、相方の知り合いがユダヤ陰謀論を「真実として教えてやる」というスタンスで彼にご高説あそばされたという話が出て、相方はその人(一応理系の大学を卒業した方らしい)に大層失望したと言っていたが、誤解を恐れずに書けば、先のマルクス主義とMMT理論を巡る空中戦の話も同様に、「人間なんてそんなもんだよ」(ネコ型ロボット並感)と私は思う(これは「保守との結節点:理性への懐疑的態度」にもつながる話だ)。

 

そこには前述したようなオールドメディアへの不信感(例:「N〇Kをぶっ壊す」とその躍進)があり、またこういった現象はアメリカや韓国にも見られるもので、さらに言えばハイデガーがナチスにコミットしたことなどを想起してもよい(ついでに言えば、「シオンの議定書」やら「デア・シュテュルマー」といったものがユダヤ人の陰謀論やヘイトを高める上でどう利用されたか、など)。もちろん、そういったものに抗おうとする人々や潮流が存在することは言うまでもないが、人間がどのようにして「論理的・合理的に思考しているつもりで間違った理解に辿りつくか」という例示を知れば知るほど、いかに人間というものが脆弱な存在かを痛感することになり、それが一方で謙虚さと穏健な懐疑主義へと人を導くのだとも思うのである(これが歴史を学ぶ意義の一つだと私は考えている)。

 

というわけで、私の提案で次はアーレントの『全体主義の起源』を取り上げることになった。これについてまた機会があれば記事にして掲載したいと思う。


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