電脳コイルの特徴が電脳と日常的風景の共存にあることはすでに述べた通りだ。ところで、これはどのような狙いに基づいているのだろうか。最初に結論を言っておくと「ジブリ作品」だが、以下で詳しく見てみよう。
一つは、視聴者層の拡大にあると推測される。
電脳コイルはSFによって男性視聴者層を引き付けつつ、女子を話の中心に据えることによって、女性陣の取り込みをはかっている(※)。あるいは、電脳ペットやサッチーなどが、子供受け・女性受けを狙っているのは確かだ。
しかしそれだけでは、このアニメに興味が湧かない人がやはり出てしまう。例えば、私の友人にはガンダム嫌いな人間がいるが、要するに彼はロボットが中心となる話が嫌いらしい。またあるいは、単純にSFに興味がうすい人たち、アニメそのものにあまり興味がない人たちは普通にこのアニメには興味を示さないだろう。そこで、ノスタルジーというSFとは一見正反対の要素の出番である。詳しく説明すると、ノスタルジーによってSFのみが強調されるのを避けるだけでなく、電脳グッズを使った遊びや探索がメンコ遊びや「秘密基地ごっこ」と重なって見えるため、(近未来の話が)むしろ懐かしさを伴った作品として受け入れることが可能になったのだ(古典的にさえ見える学校でのやり取りも、視聴者のそういった印象を補強してくれる)。さらに、絵柄がジブリや「ゲゲゲの鬼太郎」風味であることや「手を伸ばせばいつでもあるはずの温もりは幼い日の幻」といった歌詞も考慮に入れれば、電脳コイルがかなり戦略的にノスタルジーを打ち出し、広い層の視聴者を引き付けようとしたのは間違いない(最近で言えば、「三丁目の夕日」が映画化されるあたりにノスタルジーというものが強いニーズとなりつつあるのを感じる)。
しかし、ノスタルジーの意味はそういった商業戦略的なものだけではない。
ではここから、テーマとの関連で考えてみたい。そもそも、ノスタルジーとは何であろうか?辞書的に言えば「故郷をなつかしみ恋しがること、懐旧の念」(広辞苑)であるが、「懐旧」という言葉が示すと通り、それは未来的なものではなく、すでに経験したもの(過去)へと立ち返る感覚に他ならない(ただしそれは、必ずしも経験していない、つまりはアプリオリな側面も持っている。「共感という認識」中の例も参照)。そうすると、電脳コイルにおける電脳世界は、実のところ日常的風景(懐かしいもの)と対立するものではなく、むしろそれと陸続きの、あるいはその先にある領域だということが理解される。
もう少し詳しく述べよう。
イリーガルと霊、夢の強調、死の先にあるものetc…この作品におけるノスタルジーは、始めの方こそ「懐かしい風景」という現実世界の領域に留まっている。しかし、当初は日常風景と相反するかのように見られた未来的な電脳グッズが、むしろ日常空間とより原初的な世界を繋ぐ役割をするという逆転現象が起こり始める(※2)。ここに至り、「日常⇒未来」というベクトルにおいて現在・現実から脱却しているように見えた電脳世界が、実は「日常⇒無意識・霊的世界」というベクトルにおいて現在・現実を超越するものだということが明らかにされる。このようにしてノスタルジーは、最終的には超現実世界への回帰へと押し進められるのである(※3)。
以上見てきたように、電脳コイルにおけるノスタルジーは、単に雰囲気を作り出したり幅広い視聴者を集めるためではなく、作品のテーマと密接な関りがある。まだ最終話までは見ていないが、集合的無意識(夢、先験的要素)といったレベルまで風呂敷を広げたりするのか、などなど、結論が非常に楽しみな作品である。
※
こう書くと、まるで「男性=主人公」があるべき姿のような印象を受けるかもしれないが、ここまで女性視点を前面に出したSF作品(と一応言っておく)は少ない、という意味だと受け取ってもらいたい。
※2
要するに、この作品における電脳グッズは、懐かしさ、失われつつある過去との結びつきを強める媒体なのである。ところで、以前は対比的に取り上げた攻殻機動隊が、電脳化・擬体化とともに失われていく身体性の希求を扱っているのもおもしろい。草薙素子が「ゴースト」の話をするのはその一例である。そしてまた、バトーがあえて眼を自然ではない状態にしておくのも、あるいは主張の表れであるのかもしれない(レンジャー部隊はみなそうなので、断言はできないが)。ついでに言えば、身体性の希求は今日の我々とも無縁ではない。鷲田清一『モードの迷宮』などを参照。
※3
不正確になるのを承知で言えば、このベクトルは「日常⇒過去」という風に書けなくもない。その視点で見ると、ヤサコやハラケンが過去を追い求めることもまた、作品のテーマと繋がっているのだとわかる。ちなみに、フミエが「将来のために夏期講習に出る」という話が出てくるのは、それと対比するためである。
一つは、視聴者層の拡大にあると推測される。
電脳コイルはSFによって男性視聴者層を引き付けつつ、女子を話の中心に据えることによって、女性陣の取り込みをはかっている(※)。あるいは、電脳ペットやサッチーなどが、子供受け・女性受けを狙っているのは確かだ。
しかしそれだけでは、このアニメに興味が湧かない人がやはり出てしまう。例えば、私の友人にはガンダム嫌いな人間がいるが、要するに彼はロボットが中心となる話が嫌いらしい。またあるいは、単純にSFに興味がうすい人たち、アニメそのものにあまり興味がない人たちは普通にこのアニメには興味を示さないだろう。そこで、ノスタルジーというSFとは一見正反対の要素の出番である。詳しく説明すると、ノスタルジーによってSFのみが強調されるのを避けるだけでなく、電脳グッズを使った遊びや探索がメンコ遊びや「秘密基地ごっこ」と重なって見えるため、(近未来の話が)むしろ懐かしさを伴った作品として受け入れることが可能になったのだ(古典的にさえ見える学校でのやり取りも、視聴者のそういった印象を補強してくれる)。さらに、絵柄がジブリや「ゲゲゲの鬼太郎」風味であることや「手を伸ばせばいつでもあるはずの温もりは幼い日の幻」といった歌詞も考慮に入れれば、電脳コイルがかなり戦略的にノスタルジーを打ち出し、広い層の視聴者を引き付けようとしたのは間違いない(最近で言えば、「三丁目の夕日」が映画化されるあたりにノスタルジーというものが強いニーズとなりつつあるのを感じる)。
しかし、ノスタルジーの意味はそういった商業戦略的なものだけではない。
ではここから、テーマとの関連で考えてみたい。そもそも、ノスタルジーとは何であろうか?辞書的に言えば「故郷をなつかしみ恋しがること、懐旧の念」(広辞苑)であるが、「懐旧」という言葉が示すと通り、それは未来的なものではなく、すでに経験したもの(過去)へと立ち返る感覚に他ならない(ただしそれは、必ずしも経験していない、つまりはアプリオリな側面も持っている。「共感という認識」中の例も参照)。そうすると、電脳コイルにおける電脳世界は、実のところ日常的風景(懐かしいもの)と対立するものではなく、むしろそれと陸続きの、あるいはその先にある領域だということが理解される。
もう少し詳しく述べよう。
イリーガルと霊、夢の強調、死の先にあるものetc…この作品におけるノスタルジーは、始めの方こそ「懐かしい風景」という現実世界の領域に留まっている。しかし、当初は日常風景と相反するかのように見られた未来的な電脳グッズが、むしろ日常空間とより原初的な世界を繋ぐ役割をするという逆転現象が起こり始める(※2)。ここに至り、「日常⇒未来」というベクトルにおいて現在・現実から脱却しているように見えた電脳世界が、実は「日常⇒無意識・霊的世界」というベクトルにおいて現在・現実を超越するものだということが明らかにされる。このようにしてノスタルジーは、最終的には超現実世界への回帰へと押し進められるのである(※3)。
以上見てきたように、電脳コイルにおけるノスタルジーは、単に雰囲気を作り出したり幅広い視聴者を集めるためではなく、作品のテーマと密接な関りがある。まだ最終話までは見ていないが、集合的無意識(夢、先験的要素)といったレベルまで風呂敷を広げたりするのか、などなど、結論が非常に楽しみな作品である。
※
こう書くと、まるで「男性=主人公」があるべき姿のような印象を受けるかもしれないが、ここまで女性視点を前面に出したSF作品(と一応言っておく)は少ない、という意味だと受け取ってもらいたい。
※2
要するに、この作品における電脳グッズは、懐かしさ、失われつつある過去との結びつきを強める媒体なのである。ところで、以前は対比的に取り上げた攻殻機動隊が、電脳化・擬体化とともに失われていく身体性の希求を扱っているのもおもしろい。草薙素子が「ゴースト」の話をするのはその一例である。そしてまた、バトーがあえて眼を自然ではない状態にしておくのも、あるいは主張の表れであるのかもしれない(レンジャー部隊はみなそうなので、断言はできないが)。ついでに言えば、身体性の希求は今日の我々とも無縁ではない。鷲田清一『モードの迷宮』などを参照。
※3
不正確になるのを承知で言えば、このベクトルは「日常⇒過去」という風に書けなくもない。その視点で見ると、ヤサコやハラケンが過去を追い求めることもまた、作品のテーマと繋がっているのだとわかる。ちなみに、フミエが「将来のために夏期講習に出る」という話が出てくるのは、それと対比するためである。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます