以前私は、安部公房の「他人の顔」を取り上げ、(一方的な)告白文という形式や執拗な説明といった特徴が観念的な人間の独善性や臆病さを的確に表現していると述べた。しかし逆に、特に大した理由もないのに、他者が勝手にその意思を忖度(要するに深読み)することもあるだろう。特にそれが、政府の転覆や大量殺人といった行為の場合には。この例として、今回は「太陽を盗んだ男」を取り上げたい。なお、この映画はぜひ一度実見してほしいので、ある程度ぼかした形で書いていく旨お断りしておく。
この映画は1973年のものだが、実はつい最近初めてDVDで見た。しかしそこで強く思ったのは、40年近く前の映画とはとても思えないほど、現代でも実際に起こりえるだろうということであった。いやむしろ、ここで描かれる精神のあり方はますますリアルさ・切迫感を増しているとさえ感じたほどだ。さて、この作品の主人公は原子爆弾を作り、それを元にして政府を脅すのだが、その彼の目的は一体なんなのだろうか?その話をする前に、二つのことを確認しておきたい。
1.天皇主義者=右翼の埋葬
序盤に登場する老人の背景は不明であるが、それは彼が象徴であることを示している。彼は天皇と話せば(おそらく)世界が変えられる、と考えている。その意味で彼は天皇主義者=右翼と呼びうるだろう(動機付けの分からぬことが明示されている「ユリイカ」のあの人物と比較すればその立ち位置がよりわかりやすくなるだろう)。彼は何らかの目標のためにあの行為に及び、そして失敗し、埋葬された。これは旧来の改革・革命思想の一端の死を象徴する。より正確な表現を用いれば、物語や主人公にとっては、だが。もちろん、主人公が準備段階のためまったりとした流れになりかねない序盤で観客を引き込むという狙いがあるだろうし、また警部と知り合うきっかけになったという意味で物語を駆動するイベントであったのは確かだが、前述のような特徴も決して見落とすべきではないだろう。ちなみに、観客を引き込むという意味で、主人公≠「極悪人」という印象を作る上でも重要な場面である。
2.遠景化される革マル=左翼
右翼が埋葬されるなら、左翼はどうなのか?と考えた時に、テレビでただ指名手配されたと報道されるだけで終わっているのは興味深い。まあこれは主人公自身も否定しているのでわかりやすいが、要するに学生運動の時代(=変革の道しるべ、もしくは「祭り」)は終わっており、もはや身近なものではなくなっている、ということを表している。より正確には、社会の側はまだそれが機能しているという錯覚を持っているが、実際にコトを成そうとする人間にとって、もはやそれは拠り所とはなっていないということだ。
まとめると、主人公の動機づけや行為が、社会の側が背景となりうると考えているのとは別のところからきていることを、言葉によらない演出をもって示していると言えるだろう。ところで、これらを前提にすれば、主人公が原爆をもって要求した内容が、実にささいな事で社会的変革などとはおよそ関係ないものであったことはむしろ極めて必然的なものであったと言える。また、終盤になって警部に話す動機づけが、あまりに抽象的で要領をえないものであったのも当然であるように思える。彼は社会の腐敗に怒りを覚えているものの、何に対して拳を振り上げればいいのかもはやわからなくなっている(「世界への敵意と滅びの希求」なども参照)。それは、当時としては先の学生運動の終焉と繋げるのが一番実感の湧くところだったのではないかと推測するが、今日の冷戦構造の崩壊とグローバル化=システムの複雑化した社会においては、むしろその性質は強くなりこそすれ弱まってなどいないように思える(手近なターゲットを見つけてそれを叩く行為や、わかりやすいものに釣られるポピュリズムが横行するのは、そういった不安・不満の表象と言える)。私が先のように「リアルさ・切迫感を増している」と述べたのはそういう理由に基づく。
ところで、結局彼の動機づけは何なのか?そう考えた時に、今のような説明だけではある種のラディカルな行為・言説の背景を見落とし、結局は作中の(だけではないが)テレビと同じことになってしまうだろう。そういったスタンスで作品を眺めやると、主人公の孤独というものが強く印象に残る演出がなされていることに気づく。それは例えば猫とその死がわかりやすいが、その他序盤でわざわざ「ただいま」と言わせた後で、しかし誰もいない・・・といったシーンはより寒々しさを印象づけられるような演出であると言える。このような孤独感と世間への漠然とした怒り、そして・・・というのは「接吻」の犯人もそうだし、何より現代の私たちは秋葉原のいたましい事件を思い出すことができるはずだ。また、そのように明確な形をなさない不全感という背景を理解すれば、協力者の「スッキリした」発言の(人によっては怒りさえ覚えるであろう)行為に不釣り合いな軽さが、これまた必然的なものに見えてくるのではないだろうか(協力者が主人公に論理で諭されたわけではなく、むしろ非論理性に惹かれている点も想起したい)。
以上、原爆を作り政府を脅すという行為をしながら、その目的や背景も茫洋としていること、そしてそれを的確に演出していること、またそのような状況は今日ますますその色合いを増しているように思えることを簡単に述べてきた。このような認識を基にすると、
1.音楽が明らかに主人公をヒーローとして認識させるものであること
2.にもかかわらず主人公は必ずしもヒーロー的ではないこと(プールでの行為からすれば、ピカレスクという評価さえ視聴者はしないのではないか)
3.反カタルシス的な終わり方をすること(不自然に間延びした印象さえ受ける)
といった特徴のもたらすピントズレした感じや滑稽さが、不全感を糧に見えない敵へ挑む行為の必死さとその被害、そしてその滑稽さを笑えないほど適切に表象してしまっており、そういう意味でも極めて今日的な映画であると言えるのではないだろうか。
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