前回の茜妊娠エンドに引き続き、星乃文緒(看護婦)エンドのことを書いてみようと思う。まず最初に結論を言っておくと、星乃シナリオは他のシナリオを浮き立たせる意味で、つまり一種のスケープゴート的な役割を担っているのではないかと考えられる。以下、それに関する記事。
(星乃エンドの意味)
星乃シナリオは一言でいうなら、バッドエンドである。しかも、ただのバッドエンドではない。君望においては、バッドエンドであってもスタッフロールがあるのだが、星乃エンドには唯一それがない。ただ、セリフ表示部分に「BAD END」と出るだけであり、いきなりぶっつりと話が途切れる感じで話が終わるのである。
その意味では、星乃エンドを「強制終了エンド」と表現することもできるだろう。ここでちょっと構造解析のような話になるが、分岐ゲームにおけるハッピーエンドとバッドエンドとはいったい何なのだろうか?言い換えれば、そこに何が見出せるのだろう?まあ答えは簡単で、物語的に「正しい」のがハッピーエンド、「間違っている」のがバッドエンドと言える。例えば「雫」で考えると、主人公の長瀬が電波を月島のような使い方をするようになるエンドはバッドエンドとして扱われている(使用曲から明らか)。とすれば、そのエンドは物語的に「間違っている」のである。
そういう見方で君望のエンディングを考えるとどうだろうか?ハッピーエンドが「正しい」のは明らかだとして、例えばバッドエンドとして扱われるあゆ、まゆ、穂村エンドなども物語として「間違っている」と言えるだろう(前に書こうとしたが、これらがバッドエンドなのは重要なことだと考えている)。とすれば、そこにすらカテゴライズされていない星乃エンド(=「強制終了エンド」)は、物語的に「輪をかけて間違っている(あるいはよりひどく逸脱している)」と言えるのではないか。
では、なぜ「輪をかけて間違っている」のか。本文にはそのヒントが無いように思えるが、それぞれのシナリオ展開を考える限り、星乃が他のヒロインのような「重荷」を抱えていないから、というのが主な理由ではないかと推測される。彼女は、確かに苦労してきた人間とされている(キャラ紹介など)。その中で、他のキャラのような(すなわち人の命に関わることさえある)悩みを持った可能性もある(これはまったくの推測)。しかし、とにかく重要なのは、彼女がすでにそれらの悩みを(完全にではないにしても)乗り越えてしまっているという事実だろう。つまり、やや極端な言い方をすれば、彼女は悩みを共有する相手を必要としていないのである。
鳴海孝之を主人公とする君が望む永遠において、星乃が攻略対象として「輪をかけて間違っている」存在としかなりえないのは、以上のような理由があると推測される。ここで、次のように思った人がいるだろう。「輪をかけて間違ってる」なら最初から攻略できないようにすりゃいいじゃん、と。なるほど、その考えは正しい(というのも、たとえば香月医師が攻略できないのは、少し方向性が違うけれども、攻略対象として「輪をかけて間違っている」からである)。それにもかかわらず、星乃エンドは作られた。なぜなのだろうか?そこで、最初に書いた結論に繋がる。つまり、他のシナリオや全体のコンセプトを浮き彫りにするために、一種のスケープゴートの役割を与えられていると推測される。
詳しく説明すると、攻略対象として誤っているキャラを出せば、そこから逆に対象として正しいキャラ、というのが規定されるからだ。そして規定されたキャラ像は、さきほど書いたような深刻な「悩み」を抱えた人物なのであった(もっとも、大空寺はそうでもないキャラとして描かれているが)。そうして攻略範囲が規定されることは、「誰でもいいわけではない」というある程度の枠組み・コンセプトを提示することでもある。思うに、遙・水月、そして茜という三人はともかく、他のサブキャラとのエンディングがあるため、「誰でもいいのかよ」と意識的・無意識的に認識されてしまうことを想定し、単に体だけの関係に近い星乃ルートを大バッドエンドに仕上げることで、「誰でもいいわけではない」という物語上のコンセプトを示そうとしたのではないか。全体の構造から見ると、以上のように考えられるのである。
ちなみに、製作側がこのシナリオに何らかの効果を期待している可能性は、シナリオの展開自体に無茶な部分があることからも補強される(つまりそれほどまでにしてシナリオを入れなければならなかった、と考えられる)のだが、長くなってしまったので次回述べることにしたい。
※画像の著作権はageに属します
(星乃エンドの意味)
星乃シナリオは一言でいうなら、バッドエンドである。しかも、ただのバッドエンドではない。君望においては、バッドエンドであってもスタッフロールがあるのだが、星乃エンドには唯一それがない。ただ、セリフ表示部分に「BAD END」と出るだけであり、いきなりぶっつりと話が途切れる感じで話が終わるのである。
その意味では、星乃エンドを「強制終了エンド」と表現することもできるだろう。ここでちょっと構造解析のような話になるが、分岐ゲームにおけるハッピーエンドとバッドエンドとはいったい何なのだろうか?言い換えれば、そこに何が見出せるのだろう?まあ答えは簡単で、物語的に「正しい」のがハッピーエンド、「間違っている」のがバッドエンドと言える。例えば「雫」で考えると、主人公の長瀬が電波を月島のような使い方をするようになるエンドはバッドエンドとして扱われている(使用曲から明らか)。とすれば、そのエンドは物語的に「間違っている」のである。
そういう見方で君望のエンディングを考えるとどうだろうか?ハッピーエンドが「正しい」のは明らかだとして、例えばバッドエンドとして扱われるあゆ、まゆ、穂村エンドなども物語として「間違っている」と言えるだろう(前に書こうとしたが、これらがバッドエンドなのは重要なことだと考えている)。とすれば、そこにすらカテゴライズされていない星乃エンド(=「強制終了エンド」)は、物語的に「輪をかけて間違っている(あるいはよりひどく逸脱している)」と言えるのではないか。
では、なぜ「輪をかけて間違っている」のか。本文にはそのヒントが無いように思えるが、それぞれのシナリオ展開を考える限り、星乃が他のヒロインのような「重荷」を抱えていないから、というのが主な理由ではないかと推測される。彼女は、確かに苦労してきた人間とされている(キャラ紹介など)。その中で、他のキャラのような(すなわち人の命に関わることさえある)悩みを持った可能性もある(これはまったくの推測)。しかし、とにかく重要なのは、彼女がすでにそれらの悩みを(完全にではないにしても)乗り越えてしまっているという事実だろう。つまり、やや極端な言い方をすれば、彼女は悩みを共有する相手を必要としていないのである。
鳴海孝之を主人公とする君が望む永遠において、星乃が攻略対象として「輪をかけて間違っている」存在としかなりえないのは、以上のような理由があると推測される。ここで、次のように思った人がいるだろう。「輪をかけて間違ってる」なら最初から攻略できないようにすりゃいいじゃん、と。なるほど、その考えは正しい(というのも、たとえば香月医師が攻略できないのは、少し方向性が違うけれども、攻略対象として「輪をかけて間違っている」からである)。それにもかかわらず、星乃エンドは作られた。なぜなのだろうか?そこで、最初に書いた結論に繋がる。つまり、他のシナリオや全体のコンセプトを浮き彫りにするために、一種のスケープゴートの役割を与えられていると推測される。
詳しく説明すると、攻略対象として誤っているキャラを出せば、そこから逆に対象として正しいキャラ、というのが規定されるからだ。そして規定されたキャラ像は、さきほど書いたような深刻な「悩み」を抱えた人物なのであった(もっとも、大空寺はそうでもないキャラとして描かれているが)。そうして攻略範囲が規定されることは、「誰でもいいわけではない」というある程度の枠組み・コンセプトを提示することでもある。思うに、遙・水月、そして茜という三人はともかく、他のサブキャラとのエンディングがあるため、「誰でもいいのかよ」と意識的・無意識的に認識されてしまうことを想定し、単に体だけの関係に近い星乃ルートを大バッドエンドに仕上げることで、「誰でもいいわけではない」という物語上のコンセプトを示そうとしたのではないか。全体の構造から見ると、以上のように考えられるのである。
ちなみに、製作側がこのシナリオに何らかの効果を期待している可能性は、シナリオの展開自体に無茶な部分があることからも補強される(つまりそれほどまでにしてシナリオを入れなければならなかった、と考えられる)のだが、長くなってしまったので次回述べることにしたい。
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