日本人の「無宗教」について

2005-10-01 17:52:29 | 宗教分析
日本人が「無宗教」であるというのはマスコミなどを通してそれなりに自覚されている事柄だと思う。これについて私見を述べてみたい。なお、日本人全般が「無宗教」かのような書き方をしているが、世論調査などによって3割の人間は宗教へ所属しているという結果が出ているというのが事実である。よってここでは、「無宗教」が多数派であるという世界的に見て特殊な状況が生じた要因を考えていると捉えていただきたい。

日本人の言う「無宗教」は、正確には「宗教的帰属意識を持たない」ということである。ややステレオタイプな話だが、初詣や葬式仏教を思い起こしてもらえばわかるだろう(葬式仏教に関して補足するなら、日本では火葬が義務付けられている。しかしそれなら燃やせばいいだけだし、実際そのような葬式仏教によらない火葬と散骨[つまり墓にも入らない]という形態は徐々に増えてきていると思う)。

 これに対する反論として「それらは『慣習』である」というものが想定される。その意見は、(学問的にはともかく)社会通念的に正しい。「宗教的帰属意識」というものを基準に考えるならば、所属する宗派の行事・儀礼という意識(あるいは意味づけ)がなければ、どんな「宗教的」行事・儀礼を行おうと、それは特定の宗派に対する信仰心があったり、ましてやそこに所属するということは意味しない。
 
随分回りくどい言い方をした。しかしこれには理由がある。一つには、外から見た場合「なぜ仏教徒ではないのに仏教式の葬儀をするのか?」といった疑問に自覚的に答えれるかという問題(特に理解のあるわけではない外国人と付き合っていくなら、ここが特に重要だと思う)。

もう一つは、前回扱った日本人の「宗教的寛容さ」を言い換えて述べられることの多い「宗教的適当さ」の問題である。葬式仏教・初詣・クリスマスを行う混沌とした状況がそれをよく表している、という記事・言説を一度ならず聞いたりしたことがあるのではないだろうか(上で述べた初詣などの話はそれを意識して書いている)?だがそれも「宗教的帰属意識」を持たないで行事・儀礼に参加している以上何ら不思議なことではない。今までの生活・観念を大きく破壊したりするような性質の行事・儀礼をもどんどん受け入れていくというのなら、「宗教的適当さ」は当てはまるだろう。しかし、特定の宗派への帰属意識を持たない状態で、外来の行事・儀礼(のみ)をアレンジして取り入れるのは、宗教の入る余地はないと言えるだろう。このような意識の問題とは別に、「宗教的適当さ」観へは、それまで融合してきた神道と仏教を強引に引き離した神仏分離をどう考えるのか?などと問いたくなる。しっかりとした前提を持っているなら反論も返ってこようが、イメージだけで語っているのなら言葉に詰まることであろう(なお、この事例が前回の「宗教的寛容さ」観と連動していることを改めて強調しておきたい)。

以上、皮相的「無宗教」観に対しての反論のような記事になってしまった。長くなったので、「宗教的帰属意識」については機を改めて書きたいと思う。また、「無宗教」とオカルトという範疇の関係なども機会があれば論じてみたい。
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