むしろどうして、「哲学者」などと呼ばれる人々が高潔な道徳家と同類の存在と見習わされるようになったのか?おそらくそれは、学校で習うという出会い方ゆえに偉人の一種だろうと妄想し、よく調べることもないまま記憶の物置に飾ってしまうからではないだろうか(だいたい、スピノザ、ルソー、ヴィトゲンシュタインなど誰でもいいが、ちょっとでもその人間自身を知れば、そんな思い込みをすることもないのだが)。
かかる「哲学」の如きは、ヴォルテールが喝破したような「歴史は偉人達の伝記にすぎない」という状態と同様のものであって、「重要と教えられた人物の名をただ追っているだけだ」。何と勿体ないことだろうか!
汝彼らの思考の深さと広さを知れ。そしてそれゆえに持つ偏屈さも、自己顕示欲も、破壊衝動も、すべからく目を向けるべきなのである。
この表紙に書かれたるファックサインは、まさしく我らが権威主義という名の象牙の塔に対して向けられたものであり、かつ竹書房の次なる標的として、それを粉々に打ち砕いてもくれるであろう。
え?壊した後にはクソしか残らねーって?この世はクソじゃないなどと思っていたのか!!・・・とブロ様のごとく不適に笑いつつ、この稿を終えることとしたい。
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