隠岐で最初に訪れたのは知夫里島だが、そこでの農法が興味深かったので覚えてるうちに書いておきたい。
隠岐諸島は土地が痩せて平地も少ないため、日本でよく見られる水田耕作(稲作)に滴さない環境である。
そのため、牧畜と畑作を組み合わせた農法=牧畑を行うことになったらしいが、そのやり方が18世紀にイギリスで始まったノーフォーク農法(四輪作法)に似ていたので興味深かった。
つまり、土地を無駄にしないため休耕地は設けないが、ムギ=主食の生産とヒエ・アワ=救荒作物の生産の合間に家畜を使役することによる堆肥の生産、豆科植物栽培を通じた根粒菌による地力回復を挟むことで、無理なく生産を農業を続けられる仕組みにしたものらしい。
それはノーフォーク農法におけるかぶの栽培を想起させるが、思えば沢山の作物を作るために休耕地を設けない二圃制とその失敗があり、それが休耕地を設ける三圃制に変化・普及し、それによる穀物増産が人口増加や十字軍・東方植民など対外拡大へと繋がり、さらに余剰生産物の増加は商業ルネサンスや貨幣地代の広がり、さらには農奴解放にも影響していった。
そのように考えた時、単に生活の知恵にとどまらず歴史にも大きな影響を与える農法に関し、隠岐では18世紀の農法に類似した仕組みが20世紀後半まで行われていたことに、大変強く興味をひかれた次第。
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