ひぐらし:フラットになった人間関係[皆編ネタバレ]

2006-01-07 17:50:38 | ひぐらし
※かなりキツめの内容です。その点を踏まえた上でお読みください。

信じることしか知らない者の信頼に大して価値は無い。疑いを乗り越えた上で生まれた信頼に比べれば。

少なくとも罪編までは、疑うことがしっかりと意識されていた。だが、それが皆編でどうなったか?「仲間」という言葉で全ては体よく片付けられるようになった。しかも疑わなくなった理由が「悪夢を見たから」だって!?ヤレヤレだぜ…「奇跡」の言葉・現象の連発も演出的に二流のものだったが、これまたヒドイ。そして極めつけに、今まで圭一たちが「仲間」を疑うことがあったのは、ほとんど病気が原因ということにされてしまった。これは言い換えれば、疑う行為は本来の健常な状態では有り得ない(=「仲間」は信ずるべきもの)という主張と受け取れる。

罪編までは、かけがえのない「仲間」すら信用できないのではないか?という考えが生み出す閉塞感・恐怖・悲しみが、人を信頼することの難しさと状況の異常さを生々しく表現していた、はずだった。が、それは結局「病気でおかしくなってたから」という何とも単純な理由で説明されることとなった。それは同時に、信頼することの難しさ、状況の生々しさという部分を損なうものであった。なぜなら皆殺し編の説明では、それら全てが「普通じゃなかったから」の一言で片付けられてしまうからだ。そうやって疑うことの重みを台無しにしつつ、初めから信ずべき存在として仲間、仲間と連呼するのなら、そこらの「トモダチは大切にしましょう」というペラペラなフレーズといったい何が違うと言うのだろうか?しかも疑わない理由が前述の「悪夢」とあっては、そんな強引な理由まで持ち出して「仲間」を称揚したいのかと呆れるばかりだ。

夢や特殊能力に関しては祭囃しでの説明を待つべき、という意識のもとに批判を自粛してきたが、やはり一度斬り捨てておくことにした。もし上で挙げた批判を乗り越える演出を提示できるのなら、その時は喜んで私が物笑いの種になろう。その位の覚悟でこの記事は書いている。祭囃し編にはそういう意味でも期待したいと思う。

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