保守との結節点:理性への懐疑的態度

2019-07-03 13:36:36 | 感想など

ここ最近は意図的にゆっくり実況解説の記事ばかり上げていたが、その終着点として書こうと思っていたテーマをもう少し吟味した方がよさそうだと感じたので、別の話題を取り上げることにする。まあカレーも寝かせた方がおいしくなるしね・・・と言いつつも、euphoriaのレビューみたく1週間経ったファミチキ状態にならないようにしたいものである(・∀・)

 

それで今回扱うのは、これまた最近よく言及している保守思想の件だ。保守とは(少なくとも政治学的には)人間の不完全性を認識することに基づく漸進主義で、それが戦前の超国家主義とも戦後の非武装中立・世界連邦的な発想とも(それらが革新主義的ユートピアを夢想するもであるため)相容れないことは「戦争という名のファシズムから平和という名のファシズムへ」で詳述した。

 

とはいえ、私のこれまでの記事を見てきた人は、漸進主義的な発言を基本したことがないので、唐突に、あるいは意外に思われたかもしれない。しかしそれは漸進主義を軸に見るからそう感じてしまうのであって、実際には、「嘲笑の淵源」が最も典型的なのだが、保守の背景となる「人間理性への懐疑的態度」という点で共通する基盤を持っているのである(たとえば最初期から「負の方向にも可能性は無限大」といった記事を書いている)。

 

「嘲笑の淵源:極限状況、日常性、共感」の筆致がいささか露悪的にすぎるので、反省を兼ねて再度記述すれば、中学校の掃除の時間(笑)に「極限状況で人肉を食べるか?」という話題になり、同じ班の中学生男子も若手教師も等しく「いや食べないでしょう」という中で、私だけは「うーん、食べるんじゃないかな」と述べ周りから驚かれたというエピソードだ。では私の発言を形作る背景は何かといえば、「身体性に縛られる人間」とそれに連動する「人間理性(万能主義)への懐疑的態度」に他ならない。

 

いきなりカニバリズムの話だと生理的嫌悪感が先にきてしまう可能性があるので、別の例を挙げてみよう。たとえば、戦場で銃弾が飛び交う中、あなたはいつもと同じように冷静な判断ができるだろうか?この問いに首肯する人はおそらく多くあるまい。実際、『戦争における「人殺し」の心理学』などを読む限り、敵を殺すというミッションを遂行するには相当な訓練と条件付けが必要である。あるいは極限状況というアナロジーで言えば、遭難時における低体温症を原因とする判断力低下(八甲田山の遭難事故など様々な事例あり)、スタンフォードの監獄実験のような閉鎖空間で暴力的行為が許された時の人間の振る舞い(の変化)など、極限状況で豹変する数多くの事例を挙げることができる(ただ、これは動物として自然な行為と言うことも可能だ。食への欲求だけでなく、階層化とマウンティングにしても犬や猿の社会などに見られる行為なのだから)。

 

極限状況に限らずとも、身近な例で仕事や家庭などの精神的ストレスによる判断力低下、試験やプレゼン本番で緊張して実力が発揮できなかった・・・などのように、人間の論理的思考力とパフォーマンスが常に十全に発揮できるわけではない、という話は枚挙にいとまがない。ことほどさように、人間がいかなる状況でも変わらず思考力・判断力を発揮するのは困難だと実証されているのだ(むしろ、それだからこそ練習試合やら模擬面接なんてのをやるし、避難訓練もやるわけで)。

 

それならば、たかだか命のかかっていない試験ですら本領を発揮できなかったりするのに、どうして命の危険にさらされている極限状況で、平常の思考ができるなどと思うのだろうか?それを可能と考えるのはモノをよく知らないか、もしくはモノをよく考えたことがないかのどちらかであって、それこそが非論理的な態度と言えるだろう(「嘲笑の淵源」において、「極限状況で人肉を食べるんじゃないかと考えるのは、『倫理』じゃなくて、『論理』の問題」という趣旨の書き方をしたのはそういう意味だ。ちなみにここまで書いてピンとこない人は、ジョナサン=ハイト風に言えば「象」が理解を拒絶し、思考停止に陥っている可能性がある)。

 

さて、以上のような人間(理性)の脆弱さを念頭に置けば、それへの懐疑的態度を根幹に持つのは当然であり、それこそがバーク的な保守と共通する私の世界理解と言える。またそれゆえに、どれだけ理屈っぽい記事を私が大量に書いたとしても(笑)、理性万能主義的な、あるいは左翼的制度設計主義にコミットするはずもないのだ。 

 

なお、このような理解は「人間の必謬性」という話につながってくる(これは悪人正機説や一神教の神と人間の対比など宗教絡みの話題と密接に結びつく興味深いテーマだが、長くなるので今は触れない)。すると、例えば失敗して社会から(一時的にでも)ドロップアウトしたり苦境に立たされたりする人が出てくるのは必然で、自分もまたそのような傾向を免れることはできないという認識となる(ちなみにこのような思考態度は、勧善懲悪への懐疑的態度とも深く関連している。なぜなら今述べた認識から「絶対善VS絶対悪」などという図式は思い描けるはずもなく、ゆえに欺瞞が存在すると考えられるからだ。また裏腹な関係として、そこから善悪の交換可能性や境界線の曖昧さを描く作品、たとえば「undertale」「LIVE A LIVE」「沙耶の唄」などを高く評価する理由にもつながっている)。

 

私が(半ば露悪的にだが)「バカは死ぬのが正しい」と根本で思いながらもそれを断念したと書き、同時にマイノリティの包摂についても言及(→「ヒヤマケンタロウの妊娠」「秋の日は釣瓶落とし」)しているのは矛盾だと思われた方もいるかもしれない。しかし今述べたことが理解されるならば、「誰でも失敗しうる→他人事ではない→同じ社会の一員として包摂を考える必要がある(なぜならそれは未来の自分かもしれないのだから)」という流れが根底にあることも容易に理解されると思うのだがいかがだろうか。

 

なお、このような理性への懐疑的態度ゆえに、ポピュリズムの激化についても、人工知能への依存に関しても、止まることなく進んでいくであろうという話になるのだが、それはまた機会があれば別に述べたい。


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