シェイクスピア作品が「嫌い」な理由:プロパガンダへの距離感

2019-07-06 13:25:27 | 本関係

仮に、「韓国人はゴキ〇リと同じだ」という文章を見かけたとする。表現方法は多岐にわたり、どうもそれなりに文才はあるらしい(と少なくとも世間一般では言われている)。さて、あなたはこの文章を高く評価するだろうか?もしくは、好きだと思うだろうか?あるいは、「猿マネしかできない日本人という名のイエローモ〇キー」といったケースならどうだろうか?

 

唐突に思われたかもしれないが、私にとってのシェイクスピア作品、特に『ヴェニスの商人』『リチャード3世』などはそのようなものである(ちなみに前者はユダヤ人を金に執着する非人道的な存在、後者はリチャードを生まれながらの障がいと権謀術数にまみれた悪魔的人間として描いている)。これまで何度か私は「シェイクスピア作品に大して感銘を受けないのはなぜだろう?」と違和感を表明してきた。読んでいておもしろいと思えないばかりか(たとえば『リア王』はただの「裸の王様」にしか思えない等)、読み通すのに忍耐力が必要となるほど強い不快感すら催すことが少なくなかったからである。

 

そんな中、リチャード3世の遺骨が2012年に発掘され、その後の一覧の調査を受けてその正体が明確になった。というのも、そこでは作中の「せむし」の描写につながる脊柱側彎症は確かにあったものの、甲冑をまとえる程度のレベルであったし(ちなみに顔も至ってノーマルである)、DNA鑑定の結果からはむしろテューダー朝(ひいてはステュアート朝やウィンザー朝)の正当性に疑念が生じることとなったのだ。このようなfactを聞いた時の印象から、私はそれまでの違和感の正体が、彼の作品に対する嫌悪感だと明確に認識するに至ったのだ。

 

その理由を大雑把に言うと、彼の作品が権力におもねり、俗情と結託した(=大衆の思い込みに便乗した)ものに過ぎないと気づいたからで、某漫画風に言えば、「ゲロ以下の臭いがプンプンしやがる」という表現になるだろう(言うなればそれは、「あさましき畜群に供された飼料」の臭いだ)。では、これが先日の「保守との結節点:理性への懐疑的態度」とどう切り結ぶのか?

 

『リチャード3世』の記述に反感を抱く人は私の他にも少なからずいるらしく、彼の名誉回復を図ろうとする者たちをリカーディアンと呼ぶそうだが、おそらく私のスタンスはそれとも違う。なぜなら、シェイクスピア作品(≒テューダー朝の公式見解)の「リチャード=極悪人」というプロパガンダに対し、リカーディアンのそれは「リチャード=英明な君主」というカウンタープロパガンダと呼べるが、私が言っているのは実態、つまり「闇」にも「光」にも等しく目を向けるべきというアンチプロパガンダだからだ。

 

今述べた例を「保守との結節点」とのアナロジーで語れば、プロパガンダは戦前の超国家主義、カウンタープロパガンダは非武装中立もしくは世界連邦主義、アンチプロパガンダはバーク的な保守主義に置き換えることができる。あるいは、プロパガンダを戦中の戦意高揚映画、カウンタープロパガンダを戦後の反戦映画、アンチプロパガンダを「この世界の片隅に」で置き換えることもできよう(この話は、三国志と勧善懲悪時代劇の欺瞞戦争体験の語りなどにも通じる)。

 

ちなみに、なぜ私がアンチプロパガンダを重視するかと言えば、プロパガンダもカウンタープロパガンダも、つまるところただの思考停止だからだ(昨今の「ネトウヨ」と「パヨク」のレッテルの貼り合い、あるいは海外のフェイクニュース合戦などを想起されたい)。典型的なのがナチスドイツの描写であり、ただナチスやヒトラーの醜悪さを描くようなやり方では、なぜ人々がそれに魅了されていったのかを構造的に伝えられないという意味で、無意味なのである(それは喩えていうなら、病気の恐怖だけ伝え、病気の原因や治療法を提示しないのと似ている→「戦争の高揚を描かずして、戦争を理解することはできない」。あるいは、フロムやアドルノ、ホルクハイマーなどフランクフルト学派の研究も想起されたい)。

 

というわけで、シェイクスピア作品を鏡として、保守主義・アンチプロパガンダのことを述べた。もちろん、このまま終わるのはあまりにシェイクスピアにとって不公平だと思うので、弁護する材料もいくらか書いておきたい。まずそもそも、彼は歴史家でも政治家でも革命家でもなく、作家であるということ。つまり、言説を元に事実を検証するのが彼の仕事ではない(またそもそも、複雑怪奇な事実を知りえない)。そして作家である以上は売れねば意味がないわけで、大衆が喜ぶ=俗情と結託した作品を量産するのは仕事柄当然と言えよう(「マ〇ゴミ」と呼ばれるものにもニーズがあるのと同じだ)。こう書いてるみると、百田〇樹とかを連想する人もいるかもしれない(まあこのアナロジーはさすがにシェイクスピアに失礼かもしれないが)。

 

また、当時は絶対王政の時期であり、そこで王権に逆らうような作品を真正面から書けば良くて追放、悪ければ刑死のような場合もあったかもしれない。とすれば、昨今の感覚で権力におもねったというのはさすがに酷ではあろう(もう一つ言うと、私が触れたのが日本語訳の文庫本であるため、言葉のリズムや演劇のダイナミズムに魅了されることがなく、ゆえに話の構造に目が向きがちだった、という点も指摘しておく必要がある。ちなみに訳者は保守主義の代表格でもある福田恆存だ)。

 

以上要するに、シェイクスピア作品とはそもそもその程度のものであって、私が周囲の評判から期待をしすぎた状態で触れたのが運の尽きだった、とでも言う事になるだろう。今ではその作品が嫌いであるとはっきりわかり、その理由も説明できる状態になったので、たとえば善が悲劇を生みうる=世界の見通しがたさを描く「オイディプス」との対比(『MONSTER』のテンマとヨハンなどでもよい)、言い換えると前期プラトン的なオイディプスと後期プラトン的(≒キリスト教的)なシェイクスピアの比較対象といった形で、機会があれば書いてみたいと思う次第である。


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