ひぐらし:私は鬼隠し編のラストを受け入れない

2006-08-27 17:13:57 | ひぐらし
作品の方向性を正確に分析・理解しようとすることと、その内容を受け入れることは全く別物である。例えば私の場合、鬼隠し編のラストの真実とそれに対するひぐらしの主張は全く受け入れられないものだ。


鬼編のラストは、幻想の中に囚われた圭一が収容される前に魅音とレナが現れ、励ましの言葉を書く、というのが真実であった。これに罪編やら皆編の主張を掛け合わせると、つまり「やっぱり友情は本物だった。疑ってゴメンナサイ」という内容らしい。


はぁ~?死ねよ

まずは一般的なところから考えてほしい。凶器を持って目が虚ろな人間がウロウロしていたとして、あなたはその人間に近づいたりするだろうか?あるいは説得を試みようと無防備に近づく人間を賞賛するだろうか?少なくとも俺は、「アホだろそいつぁ」と一蹴する。話し合いというものは、相手に理性的に応える余地があって始めて成立するものだ。なるほど「交渉」ならばまだ話はわかるが、無防備な説得など論外と言えよう(「危険に立ち向かう行為はすべからく美しい」などといった歪んだヒロイズムを持ち合わせていないならば)。


もっともこれは極端な例であり、色々と反論が出るだろう。例えば「圭一はそれほどわかりやすい狂い方をしていなかった」などだ。なるほど、症候群について魅音やレナが正確に把握していたわけではないし、圭一は凶器を持ってウロウロしていたわけでもない。しかし、それでもやはり、あの鬼編ラストの行為はありえないのだ。それは以下の理由による。

1.魅音やレナは悟史の例を知っている
2.彼女たち(特にレナ)はともにかなり頭がキレる
3.部屋に凶器(バット)がそのままにしている
4.異常な状態になっている人間を強く刺激するような行為(はがいじめ等)を行っている

これらは今思いついた程度の内容に過ぎず、よく考えればまだ出てくるだろう。しかしこれだけでも、鬼編ラストの魅音とレナの行動がいかに軽率で、それゆえ彼女らの知能レベル的にありえないものであるかは容易に理解できる。まあレナや魅音が単なるアホだっていうのなら話は別だけど、色々な物語を通してみてもそう考えるのは無理だろう(特にレナは、綿編の如く情だけに流されずに考える強さを持っている)。ならばそもそも、鬼編のような展開になる説得力が全くない。


だから、そういった鬼編のラストをもとに「友人を信じることの大切さ」を主張されたところで説得力がないのだ(そして罪編そのものについても、だ)。いやそれどころか、

そりゃー殺られても当然じゃねー?お前らがバカなだけだろ。

と思うくらいである。例えば祟編で沙都子を救おうとした圭一のやり方には強い必然性が感じられるだけに、このような鬼編ラストの稚拙さが目立つ。まあ初回の鬼編だけに少し加減して見る必要があるのかな、かな(悪笑)。

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1 コメント

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死ね (ナナコ)
2011-05-16 12:03:54
何様?
お前が死ねば
地震信で死ねばよかったのに
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