以前イラク戦争を扱った「ハートロッカー」という映画を見た時、地雷処理班をサポートする兵士が、遠くのヤツが携帯を操作して爆弾を作動させようとしているのを撃てず、結局仲間を殺してしまう、というシーンが冒頭にあった。その様子を見て、俺はある種の苛立ちを禁じ得なかった。どう考えても焦りながら怪しげに携帯をいじってるんだから撃てよ!それでも撃たないのは仲間を見殺しにしたも同然ではないか、と。
今回取り上げるのは、そんな記憶がまだ強く残っていた頃に見た「レバノン」という映画である。この映画は、1982年のイスラエルのレバノン侵攻を舞台にしている。そもそも「中東戦争」がピンと来ない人が増える中で、ましてやレバノン内戦はよくわからない人も多いだろうが、それでもこの映画が目を引くのは、(冒頭とラストを除けば)映し出される世界が戦車の中かスコープ越しの外界のみ、という点にある(戦車の中で展開される群像劇が映画の大半を占める)。
それだけでも薄暗く狭い世界で強烈な圧迫感にさいなまれるのだが、その中で、例えば停止命令を無視して突っ込んでくる車に対して「威嚇射撃をせよ!」という命令が射撃手に対して出される。威嚇射撃をするが、止まらない。今度は車本体を撃てとの命令が下るが、運転している人間の顔もスコープ越しに見え、どうしても撃てない。車が突っ込んでくる。結局、戦車の前にいた歩兵が銃を乱射するも敵の反撃に遭い、味方の一人が死亡する(この様もスコープ越しに描かれる)。当然のごとく「なぜ撃たなかった!」と強く責められ、次に現れた車を(半ば強迫的に)撃ったら今度はただの農民だった・・・そして手足の吹き飛んだ老人が何かを叫んでいる中、歩兵によって射殺される様を見ることになる。
戦闘参加1日目で不慣れなための戸惑い、罪悪感・・・射撃兵の逡巡は様々な言葉で説明できようが、この閉鎖空間と緊迫感の中ではそれらすら後付け的なものにすぎないかのごとくである。しかも、この閉鎖空間はただ物理的・精神的な圧迫感を受け手に意識づけるだけにとどまらない。というのも、戦車のハッチから入ってくる外部の人間に対し、乗組員たちはしばしば状況の説明を求めるのだが、その都度木で鼻をくくったような対応をされる。このことから視聴者は、この戦車の中という空間が、情報的な閉鎖状態をも意味していることに否応なく気付くだろう(スコープ越しにしか見えない外界、理解できないファランへ兵のアラビア語=「味方」の実態さえわかっていないetc...といった具合でこの情報的な閉鎖状態の演出については枚挙に暇がない)。人間というものは、意味を求める動物である。「なぜ私たちは生まれたのか?」「なぜ私たちは生きるのか?」「なぜ私たちは働くのか?」「なぜ私たちは戦うのか?」・・・その欲求のために、我々はありもしないものを想像(創造)することを繰り返してきたと言っても過言ではない。そのことを思えば、不本意な選択を強いられているにもかかわらず、何のためにどこへ向かうのかも知らされず、つまり意味付けを与えられずに戦わされ続ける主人公たちが、精神を病んでいくのは極めて必然的なことであるように思われる。
ところで、今述べたことは「戦場の極限状況」という意味でありふれたテーマであるが、一方でそのことを視聴者に伝えることは極めて難しい。しかしこの作品については、それを特異な表現形式によって受け手に追体験させている点で非常に興味深い。これは端的に言えば、「交換可能性=私もまたそうなりえる」という意識をいかにして視聴者に持ってもらえるかという問題なわけだが、冒頭で述べた「ハートロッカー」のサポート兵のように第三者視点で見るのと違い、戦車という閉鎖空間の中の閉鎖的なスコープから見える視野を共有させるからこそ、その緊迫感はもちろんのこと、その選択のどうしようもなさもまた受け手に強く伝わるのである(もちろん、「redacted」などを持ち出すまでもなく、このような没入を促進する演出を警戒する意識もまた必要不可欠である。なお、このような没入の演出に関する傑作としては「沙耶の唄」などがある)。
なお、このような演出の妙と交換可能性の意識づけに関しては、同じくレバノン内戦を描いた「戦場でワルツを」も参照すべき傑作と言っていい。というのもそこでは、現実のインタビュー音声とアニメの映像という特異な組み合わせがなされているのだが、最後の最後で実写になる(=生の記憶に到る)ことからすれば、これが意図的な演出であることは明白である。そのような演出は、具体的に言えば、アニメという表現形式が「現実感のなさ」や「all redacted=主観性の表象・全てが編集済みのものでしかない」という感覚を惹起する。また交換可能性については、主人公が「俺たちがやっていることはナチスが俺たちにやったことと何が違うのか?」と問う場面が出てくる。なるほど確かに、ヨーロッパにおけるユダヤ人はかつてマイノリティとして虐げられていた。しかしそのことは、ユダヤ人が常に「可哀想な弱者」であることを意味しない。というのもパレスチナやレバノンにおいては、ユダヤ人がアラブ人たちを虐げているからである。要するに、「成ル談義」でも述べたごとく、「マイノリティ」という立場もまた交換可能なものであって、それを「ユダヤ人はかわいそう」とか「虐げられている良い人たち」などとサステナブルに捉えるのは愚の骨頂と言う他ない(もっとも、それらがイスラエル映画であって、つまりは現場に居合わせたユダヤ人たちの内省的な作品群であることはいくら強調してもしすぎることはないが)。
もちろん、次のような疑問を呈する人もいるだろう。すなわち、弱者の苦しい立場を味わった人は、痛みが解るがゆえにその後他の人に対して宥和的になるのではないか、と。確かに、南アメリカ共和国において、今は亡きマンデラが政権をとった際にあえて復讐を行わなかったことはそういう例として取り上げうるかもしれない。また「ミュンヘン」においてモサド出身の主人公が最後の最後で復讐の連鎖・虚しさを語るシーンを想起することもできるかもしれない。しかし周知のように、それはあくまで可能性の一つであって、クロアチア人とセルビア人の相克だとか、あるいは古典とも言える映画「質屋」でも描かれるような深い絶望と不信、あるいはゲイであることを隠してゲイ弾圧に走る政治家たちを暴き出す「アウトレイジ」といった具合に、実際は弱者であった者が二度とその立場に陥らないようにするため過剰に防衛的になったり、あるいは今度は自らが弾圧の側に回ることもまた、しばしば起こり得ることなのである(というよりもむしろ、そのような状況がありふれているからこそ、復讐の連鎖を断ち切らんとする態度が稀有なものとして称揚されると言うべきか)。
ともあれ、そのようなことを考えさせてくれる優れた作品として、この「レバノン」という映画は評価できるように思うのである。
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