昨日ようやく北国での軟禁から解放され帰宅。その後さっそくデスノートのスピンオフである「L change the world」を見ながら、前に書いたサイバーテロの記事や沙耶の唄(ネタばれver.はこちら)、「トランスオクシアナ」などを思い出した…とまあこの作品についてはまた機会を改めて話をするとして。
ふとしたきっかけから、最近デスノートのアニメ版を見たことはすでに述べた通りだが、その勢いで原作はもちろんのこと、13巻にあたる解説本、映画とその解説本、スピンオフ作品である「ロサンゼルスBB連続殺人事件」を消化している状況。それによってだいぶ印象が固まってきた感があるので、前回書いた「デスノート~ヒーロー、ピカレスク、ピエロ~」を補足するような形で自分がデスノートに惹かれた要因について述べておきたい。
唐突だが、私はヌルい作品が嫌いだ。
いや、より正確には、シビアな設定・展開の装いをしたヌルい作品を嫌悪している(「嫌いな作品:感動的なフレーズによる誤魔化し」。なお、無頼やシビアさを装いながら、実は理解されない愚痴をこぼしているだけの作品も含まれる)。例えばそれには(病的な)死の回避も含まれるが、より本質的にはドラマティックな死しか描かない(描けない)閉塞に対する苛立ち・怒りである。そんな檻(澱)の中で飼殺されている作品は、そもそもヌルすぎて話にならない。しかし、巷にはそういうジャンクが満ち溢れている。そしてそれを求める者たち…
要はお前らってさ、脆弱な自分(の世界観)を肯定してくれるサプリメントが欲しいだけなんでしょ?だから、そこからはみ出るようなもの(不快なもの)は排除する。そんなに自分の檻に閉じこもっていたいの?
とまあそんな風に考えている。その怒りの表れが、たとえば
そんなに予定調和が好きなら「時計仕掛けのオレンジ」のアレックスみたく、目を逸らすこともできないまま見続けるといい。そして見るたびに吐き気を催してのたうち回れよ。
という内容の記事であった。そこかしこに溢れる、安全弁のついた(主に)悲劇への怒り…その感情がどのようにして生まれてきたのかは正確にはわからない。しかし例えば、「宗教と思索」や「極限状況での振舞い」、「年末遊戯」に描かれた私の世界認識、あるいは「ひぐらしのなく頃に」(特に出題編)や「雫」、「終末の過ごし方」、「オイディプス王」などへの高い評価は、そこから生まれ出たものではある(なお、「そういうシビアさをあえて作者は避けて描いたり、ネタに走ったりしているのであり、読者もそれはわかっているはずだ」などという人がいるかもしれないが、この前書いた「『ヘタレ』と自己認識」などからすれば、そのような認識が成立するか極めて疑わしい。そこにあるのは、きちんと理解した上でのズラしなどではなく、小賢しい「わかったフリ」だけではないだろうか?)。
とまあドス黒い発言はこのぐらいにしておいて。
ごくごく簡単に言えば、そのような認識をしていた昔の私は「飽きていた」のだ。予定調和に埋没するジャンクと、それを欲するオブジェどもで埋め尽くされたこの世界に(→『無関心』と嘲笑主義」)。そういう言い方をすれば、先の「デスノート~ヒーロー、ピカレスク、ピエロ~」で述べた「自分は月寄りだった」という表現の意味がよりよく理解されるのではないだろうか。愚にもつかぬもので飽和した世界、それによる「退屈」(第一話のタイトル)…夜神月はそのような立ち位置で世界を見ているが、その背景となっている世界のあり方についての(子供じみた)願望も含めて自分は月と非常に近いものがあり、それゆえ明確に月側の視点で作品を読んでいた、ということだ(もっとも、そういう不寛容さの自覚が「多様性と『空気』」の記事に繋がったりしているのが)。ところで、デスノートに惹かれた理由は、そのような月と自分の(思考的)近似性だけではない。しばしば指摘される頭脳戦や伏線ももちろん大きな魅力だが、おそらく私の心を掴んだのは、そこに描かれる死が極めて淡々とした「乾いた死」であったからだと思われる。これは死に関してではないが、原作者の大場つぐみは「DEATH NOTE13」の中のインタビューで次のように述べている。
(過去エピソードを描くのが苦手な理由を聞かれて)
「(前略)『DEATH NOTE』は人間ドラマを深めるより、現実の厳しさを容赦なく描きたかったんです」(66P)
また次のようにも述べている。
―『DEATH NOTE』を通して表現したかったテーマはありますか?
「特にありません。強いてテーマをつけるのであれば"人間はいつか必ず死ぬし、死んだら生き返らない"だから生きている間は頑張りましょう…と。その一方で、月の行いが正義か悪かなど、そういった善悪論はあまり重要だとは思っていません。個人的には"月は凄い悪""Lも若干悪""総一郎だけ正義"…くらいの感覚でとらえています」
―つまり『DEATH NOTE』に善悪論やイデオロギー的な意図はない?
「全く考えていません。ニアが終盤に語る"正義とは個々が自分で判断して考えればいい"というのが私個人の考えに近いと思います。確かに善悪論は話題として盛り上がるのはわかりますが、どうしても思想的なものに行きついてしまうので、少なくとも『DEATH NOTE』では描かないと、初期から決めていました。危険だし、マンガとして面白いとも思えませんでしたから」(69P)
要するに、行動の細かい背景を描いたり善悪を論じさせるよりも、(意図的に)スピーディーな展開・頭脳戦に描写を集中させているということであり、これは原作12巻の「After the die,the place they go is MU(Nothigless).」という表現にも通じるが、その結果として「正しい者」ではなく頭のキレる者が生き残る展開となり、敗者はどんどん脱落していくとともに、その有様は(突き放した描写で)容赦なく淡々と、「乾いた死」とでも言うべきものとして描かれることとなった。繰り返しになるが、月との(思考的)近似性や頭脳戦のおもしろさは確かにある。しかし実は、(「乾いた死」を代表とする)作品全体を覆うこの冷厳さのようなものが、ヌルいジャンクに辟易していた自分にとって最も新鮮で魅力的なものだ(った)と思うのである(「矮小化に苛立ちて」で触れた「なるたる」の言葉を想起)。またそのような描写のあり方は、単に私の嗜好の問題にとどまらず、特に前提知識がなくてもこの作品を楽しめるものとし、またどちらの側に立つか(どちらにも立たない、というのもあり)を受け手の自由に委ねる形となり、幅広い読者を獲得することを可能にしたと予想される。
以上が、自分がデスノートに惹かれた要因に関する分析である。
次回は、デスノート映画版の評価、あるいはアニメ版の歌に関する話を書いていきたいと思う。
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