高野秀行・清水克行 『世界の辺境とハードボイルド室町時代』

2020-08-14 17:15:46 | 本関係

私はそこまで本が好きではない。確かに情報収集を目的として本を読みはするが、動画のような別の形でよりスピーディーに、より安価に同じ情報が得られるのであれば、喜んでそれらを選択するだろう(ちなみに、私が異国を旅行するのも、自分の世界観をリフレーミングするためだ)。ゆえに、本の終わりが近づくと、残りページを確認したりもするわけだが、稀にそんなものが全く気にならずに勢いで読み終えてしまう場合がある。今回紹介する『世界の辺境とハードボイルド室町時代』はその一つだ。

 

題名を見ると、「村上〇樹の著作をネタにしたおもしろ対談」くらいに思えるかもしれないが、それは半分正解で、半分は完全に間違っている。正解なのは、確実に村上の著作をネタにしていること、原作にある現実(現代)とアナザワールド(日本中世)の往還という構造が類似していること(まあだからこそ題名を拝借してるのだろうが)、そして二人の語りが軽妙洒脱で、実におもしろい(興味深い)という点だ。そして半分の間違っているというのは、そのようなイメージから惹起されるであろう、「キャッチ―だが中身のない話」とは全く程遠い内容であるということである。

 

本書の根幹をなしているのは、様々な世界を経験するだけでなくその成り立ちを分析し、それでもなお新しい知見を得て己の世界観をアップデートせんとする探求者たちの、実に豊穣なる知の共演に他ならない。その一つには、中世日本の紛争や「喧嘩両成敗」に関して、現代ソマリランドを生きる人々との共通性(重層的権力構造や多元的な法の適応)を指摘している点が挙げられる(このような比較対象の重要性は、日本人の無宗教に関する様々な考察について、特にアジア諸国との比較を欠いた視野狭窄に由来する独断がまかり通っているのを見ると、その思いを強くするところである。特に、「多神教だから特定の宗教に帰属意識を持たない」なんて話は、ヒンドゥー教とか完全無視ですか?と言いたくなる)。

 

「多元的な法の適応」などというと、近代的主権国家の中に生きている私たちにとっては全く意味不明に思われるかもしれないが、厳密な法律の範囲からずれることを許されるならば、これは日本社会における「世間」の審判を例示することができよう(まあそもそも近代司法は「法と道徳の分離」を理念として設定されているので、そのような社会のあり方が「近代的」かという疑問は当然出てくるわけだが、そのような疑問を持たれた方はぜひ清水の『喧嘩両成敗の誕生』を読まれるとよいだろう)。

 

これに関しては、イスラーム指導者(イマーム)の話が出てくるので、それにまつわる事例を書いてみようと思う。読者の中には、「イスラームであれば、シャリーア=宗教法が絶対的な権威として認知されているのではないか?」と思う人がいるかもしれないが、これは非常に単純化した見方である。そもそも、シャリーアにはその法律の由来(正当性)をどこに求めるかという基準として、クルアーン(聖典)・スンナ(預言者などの言行録)・イジュマー(合意)・キヤース(類推)・イジュティハードという5つがあるとされている。そして、これらを根拠にどのようなシャリーアを構築するかという点で、シャーフィイー派、ハナフィー派、マーリク派、ハンバル派の4つの法学派に分岐している(なお、これはスンナ派の話であり、シーア派にはまた別に法学派が存在する。そしてこの時点で、「単一のイスラーム法」という観念がフィクションに過ぎないことがわかるだろう)。

 

とはいえ、これだと単にシャリーアの多様性という話ではないかと思われるだろうが、さらにこの先がある。というのは、想像してもらえればわかると思うが、いくらシャリーアが聖的領域を超えた、すなわち政治などを含めたトータルの法であっても、所詮は7世紀にヒジャーズ地方で成立した聖典や預言者たちの言行録を主な典拠としているに過ぎない。つまり、アフリカや中央アジアといった広大な世界の事物や社会構造を慎重に吟味したものではなく、実態に全くそぐわなかったり、あるいはそもそも該当する法が存在しないので善悪の判断ができないということは当然に起こってくる(このような事態は、中国や欧米から様々な制度を採り入れる過程で色々と改変を行った日本という国を思い出せば、容易に理解されることだろう)。

 

ここでは、シャリーアにもキヤース=類推(Aが~という理由でダメならBもダメだろう)のように拡大解釈の余地が残ってはいるものの、当然限界がある。そのために、例えば時の政権が定めたカーヌーン(世俗法)や当該地域におけるウルフ(慣習法)と呼ばれるものが設定・認知され、機能していたのであった(ただ、シャリーアとこれら法律の関係性を「前者が主で後者が従」のように単純化して説明するのは時代や地域性もあって困難なため、とりあえず多層的な構造が存在していたと指摘するにとどめておく)。

 

こういった実態に合わせて、本書でも出てくるようにトルコでは昼間から酒をガバガバ飲み(余談だが彼らトルコ民族の多くは比較的法解釈の緩いハナフィー派を採用していたと言われる)、一方でサウジアラビアでは非常に厳格なイスラーム法の適応がなされている(ちなみにサウジは法の厳格な解釈で知られるハンバル派を採用しているが、ヒジャーズ地方出身のムタズくんと話したところによれば、現地民の認識としては「政権がその強権的支配にイスラーム法を利用している」との感覚らしい)という多様な現実を踏まえると、ソマリランドの複雑な構造についても、さもありなんと思えてくるわけである。

 

というわけで、少し長めにイスラーム世界の法の多層的適応という観点で書いてみたが、本書はこのような様々な地域の実態を紹介するだけでなく、その成り立ちを考察・比較・一般化する知的営為に満ち満ちている。それでいて、安易なレッテル貼りについては「いや、~な要素もあるから一概には言えない」とどちらかがブレーキ役となって歯止めをかけ、この対談が「単なる思いつきや曲学阿世の放談」に堕するのを防いでもいるのである(言うまでもないことだが、これは穏健な懐疑主義と該博な知識がバックボーンにあればこそだ)。

 

以上要するに本書は、物事について知ることや、その構造について考えることが、どれほど豊かで刺激的な行為であるかを再認識させてくれる、極めて優れた対談の記録であると述べつつ、この稿を終えることとしたい。

 

余談

本書に登場する、「本当に存在を信じているものほど具現化させない」、「具現化させると信仰の衰退に繋がっていく」という話は、安易に一般化するのは危険であることは承知しつつも、ユダヤ教やイスラームの偶像崇拝禁止の規定を強く私に連想させるとともに、細菌の可視化→病気の原因の可視化→疫病=神の罰的発想からの脱却なども考えさせられて非常に興味深かった。

ちなみに、本書ではサッカーの試合前に呪術を行うアフリカのチームの話が出てくるが、あれを見て「うわー前近代的やー」と思った人々は、今この日本で「アマビエ」がブームになっていることについて一度ちゃんと考えた方がよい(他人事じゃねーよってことやね)。そういう風に、自分や自分が属している社会を客体化して考える絶好の契機になるという点も、この対談の魅力の一つではないだろうか。

最後に、アジールの件で日本と韓国・タイの事例が対照的に述べられているが、これは江戸時代以降における日本の宗教組織の従属化を考える上で非常に興味深い。というのも、一向一揆や島原の乱といった経験を経て、江戸時代においては仏教が「国教化」され、人は生まれながらにしてそこに自動登録を余儀なくされた(そうしなければ、戸籍のない無宿人=アウトサイダー的な存在として社会からはじき出されるしかなかった。これは現代の無戸籍とその弊害=学校に通えないなどを連想すれば容易に理解されるだろう)。

これを檀家制度と呼ぶわけだが、こうして人はどこかしらの宗派に所属し、布施を払ったり葬式をその宗派・寺院で行ったりすることが慣行となった。私はそのことを「仏教教団の役所化」という風に表現したことがあるが、このような仏教教団の変質は、アジールとしての機能喪失という面からも傍証することができるという意味で強調しておきたい。このような変質によって仏教教団とそれへの帰属意識は形式化・形骸化の道をたどっていくわけだが、そこに加えて明治期におけるはしご外し(神仏分離と廃仏毀釈)、そして近代化と世俗化の波(これはいずれ、ある書籍を取り上げつつ記事を書きたい)、戦後の出稼ぎや核家族化による伝統的共同体の解体と「継承の失敗」が重なり、仏教教団への帰属意識は壊滅に向っているというのが私の分析である(ここには人口減と寺院の消滅や統合、あるいは葬式形態の変化による収入減といった事情も関係するが、ここでは詳しくは触れない)。


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2 コメント

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Unknown (木場)
2020-08-15 11:34:48
『世界の辺境とハードボイルド室町時代』は興味を持ったので早速Amazonで注文したよ。

別の話で職場何かでも思うことだが、たしかに目的を情報収集に限ってしまえば、そりゃあ分厚い本よりもお手軽なメディアを重宝することになるね。
若い世代に限らず社会人の大半がどんどん本から離れていく理由の一端が見えた気がする。
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Unknown (ムッカー)
2020-08-17 11:16:16
>早速Amazonで注文

それはよござんした。であれば、『喧嘩両成敗の誕生』もぜひ。本文では触れなかったけど、川島武宜の『日本人の法意識』や、現代の死刑存廃を巡る議論などにも通ずる点があって興味深いよ。


>たしかに目的を情報収集に限ってしまえば、そりゃあ分厚い本よりもお手軽なメディアを重宝することになるね。若い世代に限らず社会人の大半がどんどん本から離れていく理由の一端が見えた気がする。

この部分はとても重要な問題だと思う。結局本という媒体が持っている圧倒的な価値(結局専門書はそこから排他的に発信されている)を痛感していなければ、本と別の媒体(e.g.動画)の違いは多くの人にとってグーグルマップと紙の地図の違いに過ぎない(まあ自分の中では、例えば突厥という部族の歴史を知るにしても、大学一年の時に読んだ『古代トルコ民族史研究』などが常に念頭にあるので、到底短時間の動画ごときで代替できるものではない、と思っているのだけど)。

であれば、前者を選択する人間があらゆる階層で増えるのは必然的な話だろう。このような発想が世を蓋うと、いわゆる「文系不要論」であったり、理系でも基礎研究の軽視にまで繋がりうる危険な兆候なんだが、それに掉さそうとすると、理屈で説明するのが相当骨が折れるし、そもそも嫌な言い方をすれば「コスパ厨」がそんな理屈に真摯に向き合おうとするとも思えないんだよね。

このテーマはいずれ陰謀論や偽史で扱おうと思ってたんだけど、近いうちに記事にすることにしますわ。
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