やばいのう。何がやばいって、フラグメントの内容を見ても全く説明のコメントを追加する気にならない・・・その理由は、何やら皮肉めいた書き方をしているけれども、今日では割と当たり前のことになりすぎて、記事の内容的にも表現的にも意味がないものになってると思うからだ。まあ様々な情報からするとこれは2012年の覚書であり、ヨーロッパのテロは散発的にニュースになってはいたが、まだトランプ現象もブレグジットもなかったという点では、当時こういうことが自分の中で問題として取り上げるべきだと思うくらいの状況だったのだなあと妙な感慨すら抱く次第である。今では、多様化傾向は当たり前のことで、それを肯定する言説と、それに対する様々な反発・反動の中で、どう舵取りしていくのかが問題になっている(グローバル化が不可逆なのは当然として、そのスピードであったり、社会の継続可能性との折り合いをどうするかの問題になっている。)。
たとえば、移民反対は一つの言説としてあり得るけれども、それなら超高齢化社会や人手不足にどう対応するのかという青写真も同時に描く必要がある(当然理解されていると思うが、たとえばドイツが移民を受け入れているのは労働力として期待している側面が強い。もちろん、それが加速していくと[それが正しい事実認識に基づくか否かは別にして]徐々に社会不安が高まる要因にもなっているわけだが)。その場合は、むしろ人手不足を奇貨として、助成金なども含めてのドローン技術や自動運転、介護ロボットの技術向上(生産性向上に向けた技術革新)を徹底する必要がある。ただし、あるレベルまでくれば今度は人の仕事がどんどん少なくなってBIによる対応を考えるべき段階もくるだろう(人工知能のカバーする範囲は単純労働から始まり、頭脳労働に及ぶ。つまり、失職した人間は単純労働に転じて何とか食いつなぐということさえ困難になるということである。人によっては死ぬ奴は死ぬに任せればいいと思うかもしれないが、加速的な技術の進歩で日々人間の労働力が不要な領域が広がっていく=失業する人間が増えていく状況において、そのようなレッセ=フェール方針で社会が継続可能な状態になるとは到底思えない。ある閾値を超えると、多くの人間が暴動を起こし、社会のサービスが一部ストップしたり、ヨーロッパであるような技術開発反対の動き=消極的なラダイト運動で技術革新が阻害されることも予測される。であれば、技術革新による生産性向上、それによる外貨獲得、それを原資に国民にはBIをばら撒く・・・といったことも考えおいた方が、社会が上手く回る可能性はある。これに関しては、BIの額を抑える意味でも、極力金銭をかけずに時間を潰せるシステム=VR・ARあるいは「キャンD」的なもの開発向上が、民衆の「サーカス」欲求を満たし、社会を安定させることも考慮しておく必要がある)。じゃあその原資はどこから引っ張ってくるのか?仕事が減って暇な人が増えれば出生率は上がるのか否か。上がったとしてそれは(仕事が少ないのであれば)理想的な状態か?
とかね。ダラダラ書いてきたわけだが、一つのことにNOを唱えても、それが当然別のものにも影響するわけで、そこまで考えようとしなければ、ただの感想の垂れ流しにしかならないのではないか(老婆心ながら言っておけば、人手不足の何が悪いと反発するなら、あるいは成長しない社会でいいじゃないかと言うなら、じゃあ誰がどうやって超高齢化社会を支えるのかという話である)。
最後に、個々のフラグメントについての簡単な註。<メタエンタ>で書いてある内容は、「安部公房『他人の顔』」の記事ともつながる。要するに他者の理解不可能性を前提にして表現方法を考えなければただのオナニーであり、それが見たいものしか見ない傾向=ノイズ排除の問題とも深く関係しているという話。今日より強く認識されるようになっているのは、fake newsやalternative factを持ち出すまでもなく、論理的に説明しさせすれば、正しいデータを示しさえすれば、人は理解・納得するはずだという観念が端的に間違っているということである。
次に<サマリア>だが、「交換可能性」の元記事は不明(てか真剣に探すのがめんどいw)。なお、「属性」と「純愛」の話は前回の記事とつながるのだが、これがなぜ「サマリア」なのかというと、私たちがそれをかけがえのないもの=交換不可能なもの、固有性だと考える(あえて言えば「妄想できる」)のは、私たちには世界全体を見通すことも、認識の構造を神のような視点で理解することもできないからである。そのようなあり方が、キム=ギドク作品に描かれるこの世界の見通しがたさと連動すると思い、この題名にした(はずw)。ちなみにこの世界の見通しがたさを私はしばしば強調してきたが、それは「右翼思想のエートスを知る」で書いた「吉村昭的要素」にもとづくものである。
と、結局長文の補足をしていることに気づいたのであった。
<メタエンタ>
テーマ性とエンターテイメント性の両立とその戦略・重要性について、「殺人の追憶」と「鬼が来た」を例に挙げながら説明した。
そこで問題にしたのは「誰に」そして「どのように」メッセージを届けるのか?ということであったが、もう少し話に広がりを持たせておこうと思う。意見の表明は
随分昔の記事になるが、「反戦」、「祟殺し」、
倫理を問題にするのはいいが、結局自分の言いたいこといってるだけなんじゃないの?
いかに相手の発言を
そして「鬼が来た!」で述べた親密性の醸成
「JSA」。「サッカーで決めよう」の記事
ソウルイーター。「メタエンターテイメント」。
「お約束」としてネタにするというありがちな笑いを想起するかもしれないが。それは本質的ではない。
というのソウルイーターの露骨とも言える枠が浮き上がらせるのは、エンターテイメント(ここでは「価値観に抵触しない作品」の意)の成立背景、換言すればノイズの排除というものがどのように行われているかを暗に伝えている。
しかもそのことは、狂気(=暗部・ノイズ)を受け入れるソウルや「勇気」によってそれへ立ち向かうマカと病的に異物に怯え続けるアシュラの対比と完全に連動しているのである。
内容的に を示すことは確かにできよう。
この作品は良質なエンターテイメントであるとともに、
それが成立するために何が
極めて優れた作品
言いかえればシステムの恣意性。
これを念頭に置いて、次回は「まどか☆マギカ」の話をしていきたい。
<サマリア>
交換可能性についてなんでわざわざ書いたのか。あのままにしてりゃ「おお、確かに属性が多い方が楽しめるジャン!」ってなったのに、とかねwww
これがなければ、バックラッシュや「自由からの逃走」が起こる必然性が理解できないから。モラルハザードもあるけど。そういう寄る辺のなさや不全感。
構造的必然があるので、単にアブねー人たちだとか趣味の領域だとか言ってんじゃなくて手当が必要。
「共感」が危ない理由。利用されるだけ。(a)の状況だと逆効果。
フリードリヒおじさん的に「それはテメーらが理由付けしないと不安なヘタレどもだからだ(#゜Д゜)ゴルァ!!」とブチ切れてもいいが、それで解決すんのかと。
まず前提。グローバル化した世界においては、価値観の多様化は避けられないということ。
そしてグローバル化社会は不可逆だということ。
正確には戻れる。ただし、全体で目指す場合は徹底した情報統制が必要なわけだけど、それって中国とかキタ━━(゜∀゜)━━ヨ朝鮮とかなわけだよね?そうなりたいデスか?あるいはそれに大多数が合意すると思いますか?アメリカのユタ州、アーミッシュ
小さなコミュニティ作ってそこだけってのはできる。ただ、それはただのワンノブゼムです。極論すると趣味の一貫。ひぐらしの賽殺し編
それでもやるべきだと思った人。実はこれファシズムで採用されたわけよ。考えたあなたに悪意はありましたか?なかったとしたら、それがファシズムの広がった理由だにょ。悪いことやってるとは思ってないわけ。ヒトラー最期の。
ちなみにその場合、導き手の正しさはどうやって担保されるんだろうね?
ところで、たまに日本みたくなりゃ民族紛争とかなくなるって。他の国も日本みたくなりゃいい。( ´_ゝ`)フーン
(a)でいることはできませんぜ。領土問題とかもそうだけど、善悪の問題じゃなくエネルギー資源とかの話。自己の利益を主張する「他者」と向き合わねばならない。
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