そんなに他者をコントロールしたきゃセクサロイドでも買ってろ

2017-11-24 12:57:07 | AI

 

俺は鈴木涼美や岡崎京子峰なゆか、 瀧浪ユカリ菜摘ひかるなどの作品を読んできたが、そこで描かれるものにはしばしば納得し、またそれゆえ大いに笑うことが多い。

 

では何に納得し笑うのか?一つは、男たちの他人を所有できるという思い込みやそうしたいという欲望をナイーブにも発露する様である(他者のコントロール欲に取りつかれたる者たち)。そしてもう一つは、そのような衝動・行動を「愛情」とか「純愛」といった言葉で糊塗して疑おうとさえしない様である。もちろん、彼氏の携帯をチェックしたり、会ってない時の行動をヒヤリングする女にも同じ傾向は見られるのだが、野郎どもの場合はその現れ方がしばしば幼稚で、しかもそれを理屈付け(端的に言って自己正当化)しようとし、加えてそういった者達が仕事の場面ではそれなりに毅然と振る舞っているがゆえに、その底の浅さがなおいっそう笑いを誘うのだろう。それなりに社会で生きてきた・生きているはずの彼らが、なぜ圧倒的な他者を自分のものとできるなどと愚かしい勘違いをしてしまうのだろうか、と(Mr.childrenのNOT FOUNDの歌詞に見られるような他者とわかり合えない痛みや屈託がそこに見られない、もしくは少なくともパートナーからは見えない=彼らの表現力のなさに驚愕をする)。

 

まあもっとも、「ポイズンママ」や「毒親」とか言うように、女性にもその傾向は見られるわけで、その現れ方・対象が違うだけ、とも言えるように思う(前述のように、彼氏の行動を監視しようとする女も存在するわけだし)。一体どれだけの母親が「これはあなたの為なんだから」と言いながら自己の虚栄心を満たしたり不安の穴を埋めるために自らの子達に強要してきたことだろうか!結局、他者を自己の支配下に置こうという衝動は大なり小なり人の抱えるものであり、それが「純愛」とか「親の愛」・「パターナリズム」という言葉で美化・糊塗されてきただけなのだろうと思う。

 

であれば、コントロール欲から完全に自由になるなどという妄想めいたことを考えるのではなく、それを客体化した上で、他者を他者として尊重するということといかに擦り合わせるのかを葛藤しながら生きるしかないように思える。それができないなら、あるいはそれが嫌なら、不幸な支配―被支配関係ないしは共犯的主従関係を選択するか(まあ他人に自分の行動を統制してもらわにゃ不安、て人間もいるからね。それはそれで親からコントロールされ続けた結果じゃないのかい、とも思ったりするが)、いっそ他者に迷惑をかけないという意味で人工知能とのパートナーシップに切り替えていき、足りない分の子供は人工生殖として社会を維持する、という風にでもした方が社会は幸福になるんじゃねーの?などと書きつつこの稿を終えることとしたい。

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