Fateレビュー:シナリオ評価編2

2013-02-15 18:47:41 | ゲームレビュー

 

は、「同期の桜」のごとく死の象徴として捉えられてきた一方で、開花が毎年話題になるように、再生を司る存在としても認識されているように思える(まあ後者は4月に新年度がスタートする、というシステム的なものも大いに影響しているだろうが)。言い換えれば、四季という循環構造の中でリセットの役目を果たすもの、と表現することも可能だろう。そしてそれは、ある者にとっては前近代的なただの「忘却」にしかならない一方で(とか言うとホイジンガ先生に怒られそうだがw)、ある者にとっては罪の「赦し」となろう。なお、原文ではノーマルエンドに関する記事があるように書いているが、記憶の限りでは書かないままになっているはずである(実際、データを探してみたが見つからなかった)。今の視点で書いたらどのように変わるのか、あるいは変わらないのか・・・いずれ時間があれば取り組んでみたいものだ。

 

[原文] 

このような二方向の厳しさを見た後で、三周目のHeavens Feelへと進む。なお、本編におけるタイガー道場の話によれば、「士郎がどのようにしてこれから生きていくか」という視点でもって、その一つの事例を提示するという方向性で書かれたとのことだ。先に述べたように、二周目は一見士郎の生き様が勝利し、また遠坂というパートナーを得たことで彼の未来が約束されたように見えて、士郎の未来に対しては、依然として厳しい眼差しが注がれているのであった。それを受けての三周目ということである。以上のことから、三周目を単なるオマケとは扱えないことにまずは注意を喚起しておきたい。


さて、三周目で出された結論はというと、率直に言って「今までの生き様の否定」であった。それに対して私が思ったのは、「それじゃあ二周目の対決は何のためにあったわけ?」ということだった。さらに、桜が犯した罪の問題がある。なるほど確かにそれを彼女は自発的に行ったのではないし、また彼女の境遇は大いに同情の余地がある(前に書いたとおり、それまで抱いていた苛立ちが雲散霧消するほどにひどいものだった)。しかし、一周目で「なかったことにはできない」という姿勢を打ち出している以上、作品世界において過去に対する厳しい眼差しを三周目にも重ねて読むのが当然の読み方だろう。とすれば、彼女が多くの無関係の人間を殺した事実は変えようが無い。その罪は、いったいどうなるのだろうか?


このように、一周目、二周目で営々と積み重ねられてきた内容・テーマを否定する方向で三周目(の本道)は終わっている。だとすれば、プレイヤーが受け入れにくい士郎というキャラを主人公に据え、ご都合に流されない厳しい眼差しを持ち続けてきたのは一体何だったのだろうか?厳しい言い方をするなら、最後の締めであるはずの三周目によって、それまで提示されてきたものの重みが大きく損なわれてしまったのである。今までの内容・テーマを否定することにこそ意味がある(つまり必然性が存在する)、というのなら私も受け入れよう。しかし、少なくとも私自身が読み取った限りでは、否定することに必然性はなかった。


シナリオで、そのことが意識されていないわけではない。いやそれどころか、士郎は自分の生きる指標と桜の罪に対する考えの間で苦悩しているし、桜もまたそのような士郎の苦しみを感じ取っている様が描かれている。これはどういうことかと言うと、必然性がないことによる歪みが、単にそれまでの内容・テーマとの関係という物語の枠組みというレベルにとどまらず、中のキャラクター(という下位の構造)においても強く意識されているのを意味する。言い換えれば、今までの内容をしっかりと反映した展開になっているのであり、ここまでは全く矛盾・問題ないと思う。


しかしながら、意識された歪みが、単純にそれまでの内容・テーマの否定に終わってしまったことは大問題なのである。先ほど、二周目においては未来に対する厳しい眼差しが向けられていることを指摘した。それを軸に問おう。

指標を失った士郎はいったいどこへ向かうのか?と。

そのことに答えを出してない以上、三周目はそれまでの内容・テーマを単純に否定するだけの内容に終わってしまったと言わざるをえない。そのような中でのハッピーエンドなどほとんど意味はないし、ましてや大団円のハーレムエンド(正確にはTrue End「春に帰る」だが、その性格上こう呼んでおきたい)などちゃんちゃらおかしい。これなら、一周目、二周目で否定してきたご都合のゲームたちと同じではないか。いやそれどころか、精緻なストーリーと否定に向けられた言葉の数々を読み取るために必要とされた膨大な時間、そして受け入れるのが難しい主人公という要素(それは二周目があるからこそ高く評価すべきもの)を考えれば、下手なご都合ゲームの方がマシという評価すらありえるだろう。


誤解のないように言っておきたいが、最後の最後であるため、ハッピーエンドで終わらせないとプレイヤーが色々うるさいという製作者側の悩みも考慮に入れた上で書いている。もし仮に、ハーレムエンドが二周目にあって三周目は桜との二項関係で終わっていたり、あるいは士郎に新しい指標をきちんと与えた上でのハーレムエンドなら私もここまで言わない。しかし、タイガー道場で言われているような士郎のこれからの生き方もはっきり提示されず、なおかつご都合的なハーレムエンドを据えているのは、表現としてあまりにも稚拙である。


ここで、よく内容を記憶している人から、士郎が実際には一度死んでいるに等しいことなどをもって、士郎の指標の喪失と桜の罪は埋め合わされたのではないか?という意見が出るかもしれない。なるほど桜の罪については一歩譲ってそういう考え方もありだと思う。しかし重要なのは、何度もくり返しているように、それまでの指標が否定されただけで、新しい指標が設定されずに終わっていることなのだ。それゆえ、タイガー道場で示された「士郎がどうやって生きていくか」というテーマは不徹底なまま終わり、また一周目、二周目における生き様(それはテーマでもある)は止揚されることなく宙ぶらりんのままになってしまっているのである。


と、ここまでが特にハーレムエンドを念頭に置いての批判。次に、ノーマルエンドの場合を考えてみたい。


※また長くなったので、申し訳ないが再び別に記事を設ける。なお画像の著作権はType-Moonに属します。またFate本編の画像ではありません。


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