間違いだらけの日本無宗教論:仏教勢力の盛衰と世俗権力との関係

2020-04-05 11:19:00 | 宗教分析

 

「間違いだらけの日本無宗教論:重層的変化のパースペクティブ」の続編を書こうと思っとりましたが、時間が無くて無理ゲーだわいってことで、ちょっと違う話をお送りしますよと(ちなみにここから話すのが、日本における宗教の変化=ダイナミズムについての素描である)。

 

この動画では足利義教、つまり室町時代について解説している。色々と香ばしい感じの義教魔王さんだが、ここでは彼の出自としてそもそも比叡山で仏僧をやっていたこと、また比叡山が強訴を行った際に弾圧で応じたことが語られている。

 

ただ、よく知られているように、比叡山が強訴を行うのは義教の治世や室町時代に限った話ではない。とりわけ有名なのは、白河法皇の「賀茂川の水、双六の賽、山法師」を自分の意のままにならぬものとして語ったという「平家物語」の描写だろう。この山法師は強訴を繰り返した比叡山の僧兵を指すが、平安初期の823年にその名称が始まった延暦寺は300年ほどした頃にはすでに天皇でもコントロールの難しい存在となっていたことを物語っている。

 

これを単体で見れば、ただの歴史の一コマにしか見えないかもしれない。しかし、この前後の流れも見ていけば、これは非常に重要な現象だと考えることができる。

 

例えば仏教が伝来した際には受け入れ派と拒絶派で二分されたことは有名だが、仏教を受け入れた後は、「鎮護国家」という言葉が象徴するように、仏教教団は国家の強いコントロール化に置かれていた。その典型が大宝律令などに見られる僧尼令で、そこでは民衆教化=布教行為などが禁止されていたのである(例えば行基はその禁を犯すものとして始めは危険視されていたのだが、大仏建立のために民衆の力が必要な段になると、国家は行基を取り込む方針に変えたのであった)。また仏教は教育機関としての側面を強く持っており、「南都六宗」と呼ばれる6つの宗派が各々仏教教理研究に励んでいたのであった。

 

しかし、前の記事でも言及したように、平安初期に最澄という宗教的天才が天台宗を開いた後、それが民間に大きく広がる素地が作られた。そうして勢力を拡大した天台宗の姿が、白川法皇の言葉に出てくる11世紀末~12世紀初頭の権勢なのである。

 

もちろん、これは独り天台宗の内容や布教努力だけによるものではない。そこには11世紀における貴族から武士へと政権が変わる過程での政情不安(実際に治安は悪化していた)があり、そこに仏教の末法思想(その隆盛は1052年に頂点を迎えた)と極楽浄土(こっちは主に浄土宗)の思想がマッチングして強い説得力を持ったのである。

 

なお、このような世情不安と仏教思想の広がりを土台として、1175年には法然が浄土宗を開き、1247年には浄土真宗が始まる(ちなみに親鸞自身が新しい宗派を始める気はなかった点は、ルターやイエス=キリストとも似たところがある)・・・といった具合にいわゆる「鎌倉仏教」が、弾圧を受けながらも、日本に広く定着していくわけである。なお、この時に浄土宗は農民(念仏は農作業をしながらでもできる)、禅宗は武士(修身との兼ね合い)を中心に広まっていったのだが、中でも(誤解を恐れずに言えば)僧侶の肉食妻帯が許され、戒律も大幅にゆるめられた(というか無かった?)浄土真宗が最も広く普及し、その結果強勢を強めて戦国時代の一向宗に繋がっていくという点は非常に興味深い(平安時代に天台宗が普及したことは既述の通りだが、その天台宗もやはり戒律を簡素化していたため。私は大学院でトルコ系民族へのイスラームの広がりを研究していたが、多くが遊牧民で飲酒の習慣を持っていたトルコ系民族に広がったのは、シャリーアの解釈が比較的緩い面の多いハナフィー派が採用され、飲酒がOKとなった点は非常に興味を引いた部分である)。

 

このようにして、鎌倉時代に教勢を拡大した仏教(の一部)は、政権が弱体であった室町時代にはさらに存在感を増し、戦国時代には一向一揆などでもはや一つの国と言えるレベルまで強大化したのであり、こうして前掲の「重層的変化のパースペクティブ」の話へと繋がるわけである。

 

なお、前の記事と繰り返しになるが、宗教勢力と世俗権力のパワーバランスの変化は西欧のそれと比較するとわかりやすい。例えば、宗教勢力が強大で世俗権力が弱体な状態(室町時代や戦国時代)は、カノッサ事件やヴォルムス協約、そしてインノケンティウス3世くらいまでのカトリック教会(教皇権)が王権に優越する状態を連想させる(もちろん、それにも地域性があったり棲み分け的な要素があったことは、帝国教会制度のような例を出すまでもなく当然の話だ)。

 

一方で世俗権力が強大化してくると、主権国家体制の成立のように、むしろ国家が民衆の信仰について取り決めを行う(アウクスブルクの和議・ナントの王令・ウェストファリア条約がその好例)体制が成立するが、それは日本で言えば江戸時代の状況を連想させるだろう(なお、賢明な読者諸兄は、ここで勢力の強大化や弱体化が、勢力の統一や分裂といった要素とも深く関係していると理解されることと思う)。

 

こう考えてみると、例えば日本に伝来したキリスト教が戦国時代には広がったのに、明治期以降には広まらなかった理由の一つを、次のように考えることができる。すなわち、前者はイエズス会の活動という一枚岩の宗教勢力で(しかも中国の典礼問題に見られるようにキリスト教の中では現地の習俗に「比較的」寛容)、一方世俗権力としては統一的な勢力がなかったという事情が見て取れる(宗教側が統一勢力なのに対し、バラバラなので切り崩しが行いやすい。イエズス会側は手あたり次第に勧誘をしていたわけではなく、政治勢力のトップを改宗させて部下を芋づる式に改宗という方法を戦略的に採っていたので、なおのこと政治権力の分散は有利に働いたことだろう。もちろん、ここには信長という存在がキリスト教を支援したという要素も見逃しがたいのだが)。

 

後者の時には、すでに明治政府という政治的な統一勢力がある上に、「無宗教」の神道を軸とした支配体制の確立を目指しており、しかも江戸時代の邪宗観が農村では根強く残っているという圧倒的ビハインドの状況であった(ちなみに、農民=農村とは言えないが、当時の80%が農民であったことから、農村に残った邪教観の影響は今日の我々が思うより相当大きかったのではないかと想定される。なお、京都の話ではあるが、同志社大学建設には京都という天皇のいた場所にキリスト教=邪教の学校を作るのかと強い反発が起きたこともあった)。これに加えてキリスト教側もカトリックやプロテスタントを始めとする諸宗派が活動し、一枚岩ではなかったのである。これでは教勢が広まるのは難しかっただろう。

 

まとめると以下の通りだ。

1.

仏教が伝来した後、しばらくは鎮護国家の思想として国家の強いコントロール化に置かれ、奈良時代などは民衆への布教すら禁じられていた

2.

平安時代になると天台宗が開かれ、それが民衆に大きく広がっていく

3.

平安末期になると、政情不安が末法思想と結びつき、仏教がさらに隆盛する。ここから鎌倉仏教の素地も生まれてくる

4.

鎌倉仏教は弾圧を受けながらも急速に拡大し、様々な階層に定着していった

5.

室町時代になると、政治勢力の弱体化も相まって、さらに仏教教団の強勢が顕著になってくる。これは戦国時代に顕如が指導した一向宗の元で最盛期を迎えたが、政治勢力との闘争に敗れた

6.

戦国時代が終わると、統一政権は宗教勢力の取り込みや弱体化、弾圧に乗り出す

7.

江戸時代には切支丹禁制と檀家制度のシステムが完成し、仏教が国教化された(正確には住民登録も兼ねたので、自動登録システムになった、とでも言うべきか)。ここではキリスト教はもちろん、日蓮宗の不受不施派のような、要するに「政権に盾突く宗教集団」が徹底的に弾圧されたのであった

 

・・・というわけで、冒頭の足利義教と比叡山の話から日本人の宗教状況に関する話に繋げてみましたよと。こっからは足利義教についての感想だが、見てる感じ「マジメ過ぎて硬直した上司の典型」だったんではないかと私には見える。

 

まず足利義満という偉大(すぎる)父親がおり、自身は本来将軍になるポジションでもなくおそらく帝王学も身に着けていなかっただろう。その中で何とか父親の影に追いつこうと、そして自分の立ち位置を確保しようと努力したが(=まともな治世期)、言う事聞かないヤツ(例:比叡山)がいっぱい出てきたんでそれを何とかしようとモグラ叩きやってたら、誰も彼もが自分に逆らってるヤツに見えてきて、とうとう「魔王」爆誕というわけである。俺も今の会社で10年以上管理職やってるんで色々な管理職を見てきたが、えてしてまじめ過ぎる管理職が陥る失敗パターンの一つに見えた(それでクレームや問題を起こして辞めてった人も実際知ってるしね)。

 

というわけで、他人をコントロールするってホンマ難しいねえ(まあ正確に言うと、コントロールできると思ってんじゃねーよって話なんだが)と一人ごちつつ、この稿を終えることとしたい。


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