大学では東洋史を専攻して、3年の時には大漢和にも載ってない簡体字がちょいちょい出てくる明代の漢文を苦しんで読んだりしていたが、そういった経験をもってしても、「高校での漢文の学習」が役に立ったと思ったことは一度もない。より正確には、あの程度の勉強内容なら、大学1年で漢文講座設定すりゃああのレベルは一か月で終わるやんというのが実感であった。
古文に関しても似たり寄ったりで、大学で「伊勢物語」や「源氏物語」を講読する授業をとってはいたが、これを古文で読む意味とは(現代語訳でよくね??)・・・と疑問に思いつつ、仮に大学で勉強するにしても、やっぱり大学1年で古典文法を教えれば十分じゃねーの?と感じた次第である(今だったら映像授業もあるわけだし、大学で対面の講義形式で講師がわざわざ教える必要すらない。勉強させる方法としては理系と同じで、それを専攻とするコースにいるような学生は単位付与の要件を厳しくし、取れないヤツはガンガン留年させる仕組みにしたら、否応なく勉強するんじゃないですかね?)。
こう書いていると、「古文・漢文不要論」を話しているのかと思われるかもしれないが、そうではない。要するに、(主に高校で)必修として古文や漢文を教えるくらいなら、先に勉強すべきことが腐るほどあるんじゃね?という話である。さて、こういった意見については以下のような反論がありえるだろう。
反論1:それを専門に勉強したい人もいるやろがい
すでに書いたけど、高校で習うがごときレベルの知識なんて、大学1年でちゃんとやりゃあすぐにマスターできるぜ(それにある程度の強制力を持たせる方法は前述の通り)。少なくとも、学校で文系コースに進んで経済学部に行った人間が行列とか線形代数(どっちも高校ではやりません)を勉強せねばならない苦労に比べれば、何ほどのもんかと思うのだが(まあこの点は、そもそも文系・理系って進路区分と履修内容の分け方自体が実態に合ってないんじゃないの?という点が問題でもあるのだが)。
反論2:日本の古典文化を知るのに重要であるとか何とか
それ自体は理解できるんだけど、じゃあ何で古い言葉そのものを学ばねばならないのだろうか?たとえば、高校1年で自分は倫理を習ってたけど、ニーチェの思想を教わるにあたってドイツ語を勉強せよと言われたことは(履修過程上当然ではあるけど)一度もない。ギリシャ語やラテン語なども言うに及ばずである。しかしそれにもかかわらず、ソクラテスやプラトン、デカルトやモンテスキューの思想は学ぶわけで、その際に「どうして原文を読めるように、言語の知識から教えないんですか?」という疑問が呈されるのを聞いたことがない。
つまり何が言いたいかと言うと、日本の古典文化を知ることが重要なら、現代語訳された文章をばんばん読むとか、もしくはその文章が書かれた時代背景を学習し、今にそれがどう繋がっているかを体系的に教わることが重要なのであって、ちまちま文法や単語を習ってごく一部の原文を読んだところで一体何がわかるんかね?という話(現代語訳だと訳者の解釈が入っちまうやんけ、とかいう突っ込みもできなくはないが、そんな高尚なテキストクリティックレベルのことを原文を元にしてやってる学校や人間なんてどれだけ存在するのかって話よ。それこそ大学でやればいいんじゃね??)。
例えば、自分の高校の漢文の授業では「十八史略」や漢詩を扱ったりしていたけれども、中国における史料編纂の知識なしに歴史系の文章を読む意味が私には全く理解できないし(メディアリテラシーって言葉知ってる??)、あるいは漢詩についても、よく取り上げられる唐宋八大家やその古文復興運動がどういう文脈で出てきたのか、そして日本にどのような影響があったのか・・・といった視点なしに、ただ五言絶句だの七言律詩だのを教えることに何の意味があるのか、私には皆目見当がつかない。
とはいえ、両方を教えるのは時間的にも厳しかろうから、今は漢文という分野で句法・文法の習得と原文講読しているところを、中国の古典思想と日本の関係性に関する授業に置き換えればいいんじゃないだろうか(例えば「論語」の一部を教えても時間の浪費であって、儒教とは何か?それが四書の一部として重視された朱子学とはどのような思想か?それが日本に渡ってきてどのような影響を与えたか?という視点があって初めて学習内容が生きたものとなるのんじゃないですかね?)。
あるいは古文であれば、方言に残る古文の語彙であったり、時代による用語の変化、各時代の風習(例:重陽の節会)、作品が書かれた時代背景(源氏物語は実質的には宮廷版同人誌w)といったことを理解する方が、用言がどうとか活用がどうとか暗記するより、よほど「日本の古典文化を理解する」ことに繋がると思うのだが。
そもそも古文・漢文を(主に高校の)授業で受けて古典文化とやらを学んだあと、一体どれだけの人間が古文や漢文を原文で読んでいるのだろうか?むしろそれどころか、高校で習った文章の全体像すら把握しないまま、現代語訳もロクに読まずに生きているのが関の山だと思うのだが(まあ他にやるべきことが沢山あれば、それがフツーだよねと思うし)。
というわけで、「日本の古典文化を知るのに古文・漢文の学習は必要不可欠である」というのは実態からかけ離れており、その授業・カリキュラムを残したい(現状維持したいだけ)という結論からの逆算でしかないというのが私の見解である。
以上を踏まえると、要するに教育分野では(辛辣に言えば)表面的な学習だけで情弱を量産する時代遅れのことを今だに続けているわけで、もう将来的な日本の衰退は待ったなしなのに、どんどん少なくなっている子どもの未来を取り巻く環境がこれじゃあ改善も見込めないですなあ、と思う次第である(・∀・)
そうかな?
先生が何を「先に勉強すべき」と考えているかわからないけど、俺はむしろ反対で、自国の古語文法(というよりもむしろ古語文法を用いて古文に触れること)は、高等教育において結構重要じゃないかと思っている。
先生には釈迦に説法だが、高等教育は、その後の専門課程や社会人としての基礎教養の構築部分にあたるわけで、そこで何を教科として選択するかは、イコール「日本国民としてどのような人物像を求めるか」を意図することになる。
そのときに、古典を対象から外すという選択をするのは、英語ぺらぺらで利に聡い「グローバル人材(笑)」を輩出したいとするのならば良いのかも知れない。古典に充てる時間を英語や経済学に遣った方がよい。
アメリカの高校で経済学が必修科目なのは、要するにそういう領域に強いことがハイプライオリティだということだろう。
俺はそれはそれで制度設計のあり方としては否定はしないけれども、別にそれが最良だとは思わない。
また、例に挙げたアメリカはそもそも現代語とはっきり分けて勉強しなければならない古文に相当する学問領域がないことも重要なことじゃないかと思う。
要は、我々日本国民は、過去知にアクセスする手段として古文文法を知っておく必要があり、それは一部の学生に限らず提供されるべきものであるということだと思う。
別に大学で国文学を研究する者でなくとも、例えば今俺は秋成の「雨月物語」を読んでいるところだが、(現代語訳は現代語訳で読むにしても)最初に一度は原文を音読しており、そこで大半の意味はとれる。これは高等教育の恩恵である。
ついでに言えば、少なくとも日本古文は音読することを目的として書かれているものであり、現代語訳だけで足りるやんけというのはあくまでも実利面のみからの意見だと思う。
まあ、長々と書いてしまったが、高校生から古文漢文を学ぶ機会を奪い、他の英語やら何やらに充てることは、短期的な視点からは良いにしても、長い目で見た時に重大な損失を招きかねないと危惧するのです。
この論点について、参考文献として橋本治『これで古典がよくわかる』を挙げます。
一部を除けば、基本的には賛同しかねるところが多いかな。
まず、「何を『先に勉強すべき』と考えているかわからない」とあるが、該当の記事では現行の古文・漢文の学習、すなわち表面的な言語学習よりもその文章や思想自体の背景や今日的影響を知ることの方が大事であると考えているという件は繰り返し書いている通り(だから、なぜ「わからない」のかが私にはわからない)。それゆえ、文法事項などをダラダラと勉強するより(=そんな暇があるなら)、現代語訳でよいのでその文章を理解する時間に充てるべきだということ。
むしろ、現行の表層的な文法学習と字面を追うだけの(ことが多い)古文・漢文の授業は、あなたの言う「ぺらぺら」そのものではないのだろうか?例えば自分の経験で言うと、「論語」の「苛政は虎よりも猛なり」を高校の時に授業で読まされたことがあるが、そこでは「使ム」、すなわち使役のような文法事項を教わって現代語訳をしただけで、そういう文章がどのような意味を持ちうるのかについては全く言及がなかった。すでに高校生であれば、秦を強大化させた商鞅の末路(車裂きの刑)や儒教を弾圧した焚書坑儒、あるいは前漢における儒教の官学化といったことは説明できたはずなのに、だ。そういうパースペクティブを身に着けられない(身に着けさせる余裕のない)授業で、ただ句法だのちょっとした解釈だのを教わることに一体何の価値があるのだろうか?それは返り点をつけていくつかの特徴的な表現を覚えればよいという類の講義なわけだが、あたかも英語の文型と一部の構文・単語を覚えたら英語は理解したと言うがごとき強弁と同じで、全くのところ「ぺらぺら」という他ないというのが私の意見である。逆に、なぜこういった内容が「ぺらぺら」でないと考えるのか理由を聞きたいぐらいだ。
また、私が述べているのはあくまで「優先順位」であって、「古文・漢文を勉強しなくてよい」という話ではない。原文を読みたいのでそれを読解する術を会得したい、という志を持っているのであれば、余暇をもって勝手にやればよいのである(もう少し穏当な言い方をするなら、学校では必修ではなく選択科目にでもすればよい、という話)。
なるほど今回の「反対意見」が、例えば桜蔭や筑駒といった最難関の一貫校限定ならばまだわかる(まあ筑駒は高校入試もあるけど)。なぜなら、そこにいるのは最高レベルの基礎教養を身に着けた人間が相対的に多く、加えて中1から漢文を教えたりすることもできるため、古文や漢文を表面的でない形で深めていけるだけの環境が十分に備わっているからだ。そこでなら、句法や単語など些末なことは早々に学習を終えて、原文に当たりつつそれが書かれた背景なども同時に講義を受けて議論を深める、といったこともできなくはないだろう。しかし、「反対意見」にはそういう適用範囲に関する但し書きもない以上、全く同意できない。
「別に大学で国文学を研究する者でなくとも、例えば今俺は秋成の『雨月物語』を読んでいるところだが、(現代語訳は現代語訳で読むにしても)最初に一度は原文を音読しており、そこで大半の意味はとれる。これは高等教育の恩恵である。」という事例を出しているが、ここからは原文で読まねばならない必然性(現代語訳ではなぜダメなのか)が全く理解できない。端的に言えば「趣味」の産物にしか見えず、それであれば高等教育のあるべき内容に「趣味」を持ち込むのはいかがなものだろうか。
その他、「ついでに言えば、少なくとも日本古文は音読することを目的として書かれているものであり、現代語訳だけで足りるやんけというのはあくまでも実利面のみからの意見だと思う。」というが、これも正直私の文章を誤読しているように思える。要するに、私が繰り返し言っているのは、あなたの言う「実利」とやらも得ていない人間が大半にいるであろう状況の中で、(今の例で言えば)音読の価値とか言ってる場合か?という話だ。つまり、原文の表題にまさに述べた通りだが、「優先順位」の問題なのである。
大よそこんなところだろうか。
ああもう一つあったわ。「短期的な視点からは良いにしても、長い目で見た時に重大な損失を招きかねないと危惧する」とのことだが、どの道人間の未来なんてそう長くないんじゃないのかねwww
まあそこも踏まえた上で、例えば「AIの発達などによって人間の多くが高等遊民的な存在にならざるを得ないから、実利なんかより趣味を追求しておくべきだ」という見地から今回の「反対意見」を書いているのなら、また自分の応答も大分違ったものになります。
以上。
小生も読解力には人後に落ちないと自負しているが、先生のテクストを繰り返し読んでみても、やはり先生が何を優先的に勉強すべきと考えているのか分からないのである。
先生が「日本の古典文化を知ることが重要なら、現代語訳された文章をばんばん読むとか、もしくはその文章が書かれた時代背景を学習し、今にそれがどう繋がっているかを体系的に教わることが重要」と言っているのはあくまでも「(古文文法や漢文法を学ぶのは)日本の古典文化を知るのに重要である」という想定問に対する反論であって、これをもって解とするのは論理的にも読み手への配慮の面としても不十分であると言わざるを得ない。
なぜならば先生のテクストからは、
①筆者は古典を学ぶことは重要であると考えるが、より重要なのは古典の内容を知ることであって、原典を読むための文法知識を学ぶことの優先度は低くあるべきだ(古典の内容>古文文法・漢文法)
②想定読者は日本の古典文化を知ることが重要と言うが、筆者はそれ自体理解はするし、それを不要だとまでは言わないが、優先度自体は他の科目に比べて劣後すべきだ(他の科目>古文・漢文)
という2つの主張が読み手からは想定されているにも関わらず、結局どっちなのか明確に読み取れないわけである。
実際小生は②と読み取った。それは、想定問に古文・漢文そのものを擁護している反論を用意していることからその反対が主張点であろうという推測からである。(しかしどうやら違う!?)
2.「ぺらぺら」について
できれば小生のコメントをもう一度読み返して欲しいのだが、先生が用いている「ぺらぺら」という意味では小生は「ぺらぺら」という言葉は用いていない。
そして、先生の用いる意味での「ぺらぺら」、つまり高等教育における古文文法・漢文法のレベルが表層的であるという点について、小生は先のコメントでは特に何も言及してはいないが、せっかくなのでざっと管見を述べさせていただくと、「ぺらぺら」なのはある程度仕方のないことではないか、ということになる。
そもそも学生に対して「教えたことを瞬時に血肉化させる」ことを期待するべきではなくて、むしろ「我々大人が君たちに日本の高等教育課程をクリアするために要求する学問領域や知的水準はこういうことだよ」というメッセージを送ることの方が、教育制度設計における視点の据え方としては妥当ではないか。
だって大多数の学生にとって、学校で何となく聞いていた話が実は結構大切だということが腑に落ちるのは人生のもっと後のタイミングなのだから。その気付きのトリガを記憶の片隅に埋め込んでおくことが重要と考えれば、内容が「ぺらぺら」であることは二次的な問題として看過するにやむなしということになると思う。
だいたいそんなこと言ったら高校で学ぶほぼ全ての教科が「ぺらぺら」でしょという話。
3.桜蔭、筑駒云々の話
全体的に先生のテクストと小生の反対意見とそれに対する再反論は議論としてすれ違いが多いように思われる(小生は先生のテクストを読んで明白な誤読という失礼は犯さぬよう重々注意したつもりだが、先生の再反論には小生の誤読という指摘が散見される。)のであるが、ここのくだりはその最たるところである。
正直、先生が小生の意見をどのように受け取ってこのくだりを書いたのか分からないし、その主張点もよく分からないのである。
なので議論自体素通りしてもよかったと思うが、あえて考えてみると、このくだりからは、そもそも「高等教育の目的とは何か」という点についての双方の致命的な見解の不一致が透けて見えるのではないかと思うに至った。
それでも小生は先の反対意見において、実利(←普遍的な意味は持たない。小生のコンセプトでは、現在は、資金力という尺度を特に重視した「国力」の向上に貢献するもの、ということになろうか。)のみを高等教育の目的に据えるべきではないことを主張しているのは文脈から読み取って欲しいところだが、正直なところ先生のテクストからはこの最も重要な前提が述べられていないのではないかと思うのである。
とは言え、「雨月物語」のくだりで「端的に言えば『趣味』の産物にしか見えず、それであれば高等教育のあるべき内容に『趣味』を持ち込むのはいかがなものだろうか。」という意見が見られることから、かなり小生の言う「実利」重視主義なのかということは何となく読み取った。
ここも精緻に解釈すれば、先生がどういう意味で「趣味」という言葉を使っているのか説明を求めたいところだが(それ如何によって小生の批判のポイントも変わってくるので。)、仮にそれを「文化的なものごと」と受け取れば、高等教育で文化的なことを学習することがなぜ批判されなければならないのか膝を正して問い詰めたい気持ちである。
いずれにしても、是非先生の考える高等教育の目的については、別のテクストででも言明いただければ幸いである。先生における「実利」のコンセプトも添えて。
4.原典は不要で現代語訳だけあればいいのか
小生の言う「長い目で見た時に重大な損失を招きかねない」ことの一つが、過去知へのアクセスの断絶である。
詳しくはないが、韓国では漢字を捨て去ったことで自国の過去知にアクセスできない人が圧倒的に増えたという話を聞いたことがある。だとしても先生は「現代語訳があるから困らんやろ?」という意見に立つのだと思うが、小生にはどうしてもそれは危険な思想に思われるのである。
いくら「ぺらぺら」でも、高等教育で古文文法・漢文法を学ぶ機会そのものを奪うのは、その分専門課程に進む人間や趣味的にでも古典に触れる人間の絶対数を減らすことになる。そしてそれは、いずれ原典へアクセスすることのできる人間を死滅化させることになるはずである。小生はそれを「よいこと」とも「致し方ないこと」とも思わない。
もう一つ、これも詳しくはないが、ヨーロッパの高等教育課程ではラテン語が用意されているという話も聞く。日本もヨーロッパもいつまでも学生に優先順位が低くて意味のないことをやらせやがるとばっさり切ってしまうのは、少し拙速な考え方とは言えないだろうか。
一応先に言っておくと、原文で最初に自分が大学で漢文にも古文にも触れていたことから書き始めたのは、こういう否定的提案でよくある「嫌いだから・わからないから古文・漢文を否定しているのではないか?」というレッテル貼りを回避するためだ。
また、古文・漢文を優先する理由がわからないという主張に対し、今ありがちな「グローバル人材の育成」的なものを重視しているんじゃないか?とみなす読者がいることは予想していたので、「古典文化に触れる価値」を否定しているのではなく、それを原文で読むためにちまちま文法事項を教えて、結果的に極々断片的な原文しか知らず、結果としてその文章や作品の特徴や歴史的評価すらロクに理解しないというのは順番をはき違えている、という書き方をしたのである。
というわけで想定された誤読への予防線を張っていたつもりだったので、まさしくそれそのものの「反対意見」が、しかもあなたから来たため、「あれ?これ半分ネタで言ってるのかな?」と疑ったほどであった。
まあそういうわけではなさそうだと理解したので、改めて自分の主張を二つにまとめて書いておこう。
1.
古文漢文の文法説明や原文購読を必修するとする今の授業の仕組みは間違っており、周辺知識の体系的説明と理解を優先すべきだ。
2.
その理由は、原文を読めることが無意味ということではなく、優先順位が「周辺知識→現代語訳→原文講読」と考えるからだ。
言い換えれば、原文を読める素養なぞいらんと主張してるのではなく、周辺知識を踏まえて原文を読む訓練まだやる時間があるならやればいい(ただし選択科目でね。それを両方必修でやれというのであれば、まあそれができるのは能力的・時間的に余裕がある最上位の一貫校の進学校ぐらいだろうけどね。すると、前回コメントで例に挙げた桜蔭や筑駒みたいな学校か、あるいは旧制ナンバー高みたいなカテゴリーになる)。
この主張の根拠と背景明確化するため高校の話にフォーカスするが、まずそもそも高校進学率は99%。その中には商業高校など含まれるから一律には語れないとはいえ、「ほぼ全員」と言っていい。
さて、この中で高校を卒業した後に、古文や漢文どちらでもいいが、原文を読み通そうとしたことのある人間の割合は、極めて少ないと断言できる。というのも、もしこれが大量にいるのであれば、原文を載せた本は毎年飛ぶように売れていないとおかしいし、仮に購入していないのだとしても、図書館は大変なことになっているだろう(えええ?土佐日記って2年待ちかよ!的な)。
しかし、自分の周囲を見ても、そんな現象は皆無だし、そんな人を見たこともない(ああ例外はあなただったわwちなみにあなたは周囲にそういう知り合いが沢山いるのかな?)。むしろ観測できるのは、「~分でわかる...」や「マンガでわる...」なるライトに知識を得られる本や動画が多少話題になるくらいであって、原著がブームになったこともなければ、そこまで読む人もほぼ皆無であると言ってよいのではないだろうか(まあこれが中田敦彦の動画が人気の理由だ。動画内容を批判するのは容易いが、その隆盛が示すのは、多くの人は古文や漢文を習ったにもかかわらず、原著や現代語訳どころか周辺情報すら知らないし、また深くなんて知りたくない人がいかに多いかということに他ならない)。
かかる状況で、高校で原典のごくごく一部を読む練習に時間を当てる必然性がまるで理解できない。なぜなら、周辺知識すらロクに教えられず、クリティカルな視点も持たずにただダラダラと原文を読むのは、「論語読みの論語知らず」という言葉すら生ぬるい愚か者を量産するだけだし、ましてその状態を自覚せずに「自分は原文を諳んじているから古の言葉や文化を理解した高尚な人間なのだ」と思いあがる連中は、幼い子どもに教育勅語読ませてるコスプレ「保守」どもと変わるところがない(ちなみにこういう外面だけ阿るような連中のことを、保守の三島由紀夫は「一番病」と述べた批判したわけだが)。
私が原文の購読(古文や漢文の読み方)よりその周辺知識を優先して教えるべきだ、と主張するのはこのような理由である。
なお、最後に「原典は不要で現代語訳だけあればいいのか」という項目で韓国の話が出ているが、これは中国についても同じようなことが言われている記事を見たので、ある程度一般的に起こりうる状況なのは理解する(ただ、それは日本人が書いた記事だったこともあり、どれだけ多くの中国人がそれを「まずい状況」と評価しているかは不明)。そこで、この項目でのあなたの主張に直接応答するものでないことは理解しつつ、今回の元記事全体にも繋がる話(優先順位)なので、そのような目を向けられている韓国の高校生に仮託して、その評価に「反論」してみたい(念のため断っておくと、書きやすくするためにそのような状況を憂いて自分たち高校生が批判されている、という体にしている)。
あなたが「韓国では漢字を捨て去ったことで自国の過去知にアクセスできない人が圧倒的に増えた」「これは極めて憂慮すべきことである」という内容の記事を拝見しました。ところで聞きたいのですが、あなたは私たち学生の置かれた状況を知っていますか?小さい頃から受験勉強に追われているのはもちろん、大学でもそれは変わりません。理由は良いところに就職したいからであるのと、就職状況がとても厳しいからです。
ご存知のこととは思いますが、SKYに入るか医学部に入るかでもしないと、大学に入学してもロクな仕事にありつけないことがしばしばあるのが現状なのです。それに、私のような男子なら兵役もある。一体どこに、就職時に関係ない漢字や漢文の知識を学んで原文を読めるように訓練する時間があるんでしょうか?
漢文とハングルとは何もかもが違います。文法構造もそうだし、そもそも漢字自体を沢山覚えていかないといけない。つまり、第二外国語を覚えるのと同じです。ならばまだ、現代中国語を習得した方がよほど利益があります。
なるほど歴史を知るべきだとか、「文化資本」を大事にしろというのはわかりますよ(例えばヨーロッパのエスタブリッシュメントとの関わりにおいて、絵画の素養はあるに越したことはない、というのも聞いたことがありますしね)。ならばどうして、元は漢字で書かれたものの解説をハングルで読むのではダメなのでしょうか?私にはそれが理解できません。
そもそも、あなたが言う「漢字が読める」というのは、いつの時代を指しているんでしょうか?両班がいた頃ですか?それとも朴政権時代?いずれにせよ、その頃に漢文が読めた人というのは、いったい何%いたんでしょうか?
あと、その頃と比べて私たち学生の学ぶべき量や学習時間はどのように変化したのでしょうか?それともしなかったのでしょうか?仮に、当時ごく少数の特権階級や富裕層しか漢文を読む素養がなかったのだとしたら、そしてそれが少数だったのだとしたら、現代の私たちとそんなに差があるのか、私にはよく理解できません。
そういった指標を明確に示して説明してくれなければ、具体性がないため問題かどうかわかりませんし、私たちの状況を無視して「懸念のようなもの」だけ表明されても、ありがちな保守の「ぼやき」ぐらいにしか聞こえないんですよね。
以上。
一体全体、公教育という時間と費用と労力を注いで学生にそれを学ばせるねらいとは何だろう?
史実に関する話であれば歴史との差異がよくわからないし、先人の智恵に関するような話であれば道徳の授業みたいなものではないかと思えてしまう。
それに先生の理屈に従えば、例えば英語で、
It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us—that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion—that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain—that this nation, under God, shall have a new birth of freedom—and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
という文について、英文法を駆使して英文解釈を行う授業をするよりも、アメリカ史におけるゲティスバーグ演説の意義について学生に理解させることの方が重要であるという、常識的感覚からすればきわめて不自然に思える結論を招いてしまうことになるのではないだろうか?
また、先生の主張を見ていて気になるのは、高等教育のあるべき姿を考える以前に、あまりにも「大学受験のための高等教育」という側面が強すぎるように感じる。
高等教育に限らず、公教育のあるべき論を考えるにあたって一番重要なのは、その課程において求められる日本国民としての素養なのではないだろうか。
批判ばかりして申し訳ないが、見方を変えれば理解はできる主張だと思っているので悪しからず。
コメント内容について、色々な論点はあると思うけど、今回は二つの点に絞って書いたみたい。
まず一点目。
表題に「教育理念」とあるが、そもそもあなたは今の教育理念がどんなもので、その実現のためにどれくらい、そしてどのような努力がなされているか。あるいはそれによって「教育理念」とやらがどの程度実現していると考えているかを聞きたいところである。
ただ、質問に質問で返すだけでは芸がないので多少話を進めると、これまでのあなたの言からするならば、高校で古文・漢文の授業を必修とすることについては、「古文や漢文を学ぶことを通じて日本の古典文化を知り、継承する」と理解しているのではないかと予測している(間違っていたら訂正よろしく)。
とするなら私の問いは、「ではそのような教育理念とやらは実現されているか?」というものになるだろう。
これは前回コメントした通りだが、99%の高校進学率(=ほぼ全ての国民)という割合から考えた場合、原文へのアクセスは高校の必修授業を終えてからほぼほぼなく、ましてや原著を通読するなど皆無に等しいと言ってよいのではないだろうか。
そしてせいぜいが、周辺知識を無料動画で得るか、「マンガでわかる~」を購入する程度であろう。
このような実態を踏まえれば、「古文や漢文を学ぶことを通じて日本の古典文化を知り、継承する」といった「教育理念」的なものは絵に描いた餅に過ぎない。
もちろん、理念とは現実でないからこそ理念であって、そこに向けて不断の努力をし続けることが必要なのだという論もあるだろうが、私はそのような理念を実態に近づける努力(学校なのか政府なのかはさておき)を寡聞にして知らない。
そして結局は実態がどうなっているかと言うと、時代背景とかもロクに知らず、批判的思考も読み方もできぬまま、入試という「箱庭」で「この『ぬ』は何ですか?」的なものが出題されて点数がつけられるわけだ。
そして、何度も繰り返して恐縮だが、そういった素養を未来に生かす人は極めて少ない(だって原文を読まないんだからね)。
ならば私は、それこそが「受験のための知識」なのではないだろうか?と問いたい。
要するに、今の古文や漢文の必修授業なるものは、スタートこそ理念やコンセプトがあったのだろうが、時代の変遷によって我々を取り巻く状況が大きく変わり、かつ高校の教育を受ける人間が(プラスの意味でもマイナスの意味でも)膨大に膨らんだ結果、ただの「惰性の産物」と化しているのではないか、というのが私の評価である。
(これは掛け値なしに言うのだが)賢明なあなたがこういった実態と理念の乖離を認識していないはずはないと私は思うのだが(統計データを取るまでもなくわかることなので)、それでもなお古文や漢文の必修授業に意味を見出す理由が皆目理解できない、ということだ。
まあそれだからこそ、もしかして「意識的・無意識的に古文や漢文の知識を習ってもそれを深める努力も生かす努力もしない『畜群』は始めから考察の埒外である」ぐらいに思っているのかということで桜蔭とか筑駒の例を出してみたんだけどね。
では二点目。
私の「教育理念」が見えにくいとのことのようだが、はっきり言ってそんな「高尚」なものは持ち合わせていない。しかし、まずはさっき書いたように今の古文・漢文の必修授業というシステムは実態としてほぼ機能しておらず、ゆえに代替されるべきだ、というのがまず大きい。
そして、代替されるべきと考えているものとしては、「批判的思考・読解」がある。fake newsやfactfulnessなぞもはやクリシェのレベルですらあり、今さら言うまでもないと思われるだろうが、じゃあそれって実態としてどの程度の人が身に着けているのだろうか?
もちろん多忙な社会人にもなれば、いくら批判的思考があってもクロスレビューをする時間もなければ、気にかかった文章の原文にアクセスして正確にそれを知ろうとする時間はもっとないかもしれない。
しかしながら、そもそもこれからの社会を生きていく上での基礎体力のようなものとして、様々な時代の思想や物語に触れつつ、その背景や歴史的意義を知ることの方が原文を読む文法練習などよりも、圧倒的に大多数の人にとって有用だし、どころか必要不可欠だとさえ言えるだろう(ちなみに今後の社会ビジョンとして、企業独占とマトリックス的な繭の中で生きる多数のアンダークラスという構造を想定しており、かつそれを推進すべきと考える場合は、この限りではない。それならシステムに隷属するだけの「畜群」を量産しておいた方が、ポスト資本主義の社会主義的世界[cf.シュンペーター]は安定する可能性が高いからね。まあそういう皮肉が最初のコメントで述べた「高等遊民」にも繋がるんだけど)。
というわけで、背景知識とか現代語訳の方が優先って話にもなるのである。そういう想定からいくと、別にそこで教える内容が国語に属すべきかどうかなどというのは極めて些末なことだと考えるね。
ちなみにこの話も、私の独創なんかじゃ全くなくて、そもそも日本にも戦後間もなくまでキャスターが話している場面を見せて「この人はどういう文脈でこういう発言をしているのでしょうか?」というメディアリテラシーを身に着けさせるような授業は存在してたんだけどな。
まあ今回はこの辺で。
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①筆者は古典を学ぶことは重要であると考えるが、より重要なのは古典の内容を知ることであって、原典を読むための文法知識を学ぶことの優先度は低くあるべきだ(古典の内容>古文文法・漢文法)
②想定読者は日本の古典文化を知ることが重要と言うが、筆者はそれ自体理解はするし、それを不要だとまでは言わないが、優先度自体は他の科目に比べて劣後すべきだ(他の科目>古文・漢文)
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一度①だという前提にたどり着いたが、直前のコメントを読むと、やはり先生の主張は②に立ったものなのではないか?
(考えてみればタイトルからして「古文や漢文の勉強」に疑問を呈しているし・・・・・・)
これを細かいことだと考えないで欲しい。議論の対象が①なのか②なのかで様相は大きく異なる。
しかし、ここまできて改めて先生の立場に立って考えてみると、先生と小生では少なくとも古文・漢文においては受けた教育の質の違いがあるのかも知れないと思うに至った。
つまり、先生にとって古文・漢文という科目が古文文法・漢文法そのものであるということなのではなかったか。
もしそうだとしたら、これは大きな不幸である。
まず小生自身の高校時代の授業の記憶を呼び起してみると、文法(や単語)はあくまでも解釈のための道具としてしか存在しておらず、高校1年の最初期こそ文法も厚めにやったが、以降はほぼ授業において必要最小限に触れられる程度ではなかったかと思う。
また、手元にある本をめくってみると、例えば小西甚一『古文研究法』(ちくま学芸文庫)の冒頭で古文の勉強はa. 語学的理解(語彙・語法) b. 精神的理解(把握・批評) c. 歴史的理解(事項の整理・表現との連関)という鼎の系列で理解すべきと述べており、文法というのは一つの要素として位置づけられているに過ぎない。同じ小西『古文の読解』(ちくま学芸文庫)はこの傾向がより顕著であるどころか、メインを解釈に据えているので、大人が読んでも示唆の富む面白い内容になっている。橋本武(元灘高教諭)『橋本式国語勉強法』(岩波ジュニア新書)も構成的にみて似た傾向と言える。
上記の推測が正しいとすると、教師の教え方が悪いという見もフタもない結論になってしまうのだが、いかがだろうか。
先生が上で言う「批判的思考・読解」(クリティカルシンキング)というのも、優秀な教師であれば科目を問わず実践しているというのが個人的な経験からの感想である。
そういえば、先生が勧めている「ただよび」の古文の講義も最初はかなり文法に偏った授業をしていると思う。1コマ10分の授業という制約があり、後半で解釈の授業を行うための布石にせざるを得ないという構成的に悩ましい部分があると思うが、学力が高くなくこらえ性のない学生だと途中であきらめてしまった子も多いのではないかと想像する。
正直脱力してバブルスライムにでもなりそうなテンションだね(・∀・)そういや以前、ブログの記事で「ガラスの小びん」を小学生に教える意味って何ですかねえと一般的な教育カリキュラムに疑義を唱えた時、「あなたにとっては意味があったのではないですか?」という返信が来て一般と特殊具体の区別もつかんのかい!と思わず脱力して返信する気にもならなかったが、それに近いテンションですわw
まあでも、ここまで色々とコメントを書いていてあなたから一度も「その話」が出ないことからすると、ドストレートに書いた方がいいんだろうね。
「あなたが高校の古文・漢文の授業について経験したことやそれに基づく主張が、広範に適用しうる具体的根拠を明示しなさい」
勘違いしないでほしいが、これは後出しじゃんけんで言ってるんじゃあないぜ。というのも、私は大要次のようなことを書いてきた。
「高校の進学率が今や99%に達するにもかかわらず、そこで古文・漢文の文法や原文に触れた後、圧倒的多数が原文を読もうとなんかしない。そしてそれは書籍の売れ行きとか図書館の様子から状況証拠的にではあるが傍証できる」、「ゆえに、必修授業で受けさせられたとて、それを活用する人間なんて専門にする以外は公的・私的にもいないのだから、必修授業として高校で教える必要はない(そのオルタナティブは古典の周辺知識や現代語訳でよい)」
では、あなたの主張が一般性を持つ具体的根拠は何だろうか?そこでもしかすると、韓国やアメリカの事例を挙げたやんけと思うかもしれないが、韓国の件は「別にそれを憂うのは自由だけど、それ実際に今の教育へ有機的に組み込めると思ってんの?」ということで韓国の勉強の大変さや就職の大変さ、徴兵制なども絡めつつ具体的に反証したつもりだ。
で、改めて私のあなたのコメントに投げかけたいことを繰り返すと、
「あなたが高校の古文・漢文の授業について経験したことやそれに基づく主張が広範に適用しうる具体的根拠を明示しなさい」
なわけです。
あなたが手を変え品を変え色々書いても、私が全くと言っていいほどその主張に説得力を感じないのは、意識的か無意識的なのか知らないが、今述べた要素が欠落してるからであり、ゆえにただのおためごかしを言ってるようにしか聞こえないのである。逆に言えば、それを明晰に示すことができるならば、すぐにでも私は「宗旨替え」するかもしれんねw
つまり、「価値観の違い」ではありません。どういう意図でこういう風に導入を持っていこうと考えたのか知らないけど、私にしてみれば勘違いも甚だしいので繰り返し強調しておきたい。
※補足のような蛇足
老婆心ながら書いておくと、「あなたが受けた教育を何の根拠もなく一般化してないかい?」という意味で桜蔭や筑駒の話をあえて何度も持ち出したわけだけど(あなたの通っていた高校にはそれらと並べられる資格があるだろう)、どうやらそれは全く伝わらんかったらしいね。
仮に「高校の教育の本文は日本のエリートの育成であり、そもそも今の高校進学率がおかしいし、そうやって大衆化した環境でエリート養成についてこれない連中に阿るのは馬鹿げている。ゆえに、旧制ナンバー高的なるものを理想として、高校の教育は構築されるべきである」と主張しているなら、つまりは、一般的状況を十二分に理解した上で、それが高校教育のあるべき姿とは程遠いので、「高校を卒業した後に原典に触れることのない人間が多いことを理由として今の古文・漢文の授業の優先度が低いなどと論じるのは愚の骨頂である」とか言うのであれば、賛同するかどうかはともかく、理解はできる(要するに、お前が批判の前提としているものを俺は共有しない、と言われてるわけだからね。それならなるほど、「価値観の違い」というか立場の違いだわな)。
しかし、そういった一般的状況に言及することなく、ただ己の事例をくだくだしく述べられても、「それってあなたの感想ですよね」という返し以外はないわけである(それこそあなたが好きな異言語と論理構造の話でも、英語では主張には具体例や根拠が続いて相手を説得していくわけでね)。
ちなみに、今回の議論で意識がライジングしている官僚(あなたの職業とは違うけど)的思考様式の一端を垣間見たような気がしたわ。
さらに言えば、先日ブログ記事でも紹介した松岡亮二の『教育格差』で、「多くの人が教育に一家言あるのはわかるが、イメージで語り過ぎて不毛なすれ違いの議論になる」という趣旨のことを書いていたことの正しさを改めて感じたわ(だから著者はデータにこだわるんだけどね)。
まあそういう意味では、実例を目の当たりにできたという意味で色々と実りのある議論だったと感じますわ。
私ももっと具体的なデータを知ってものを語るようにせねばいかんなと思いましたマル
そういうと先生はまた脊髄反射的に「ほら見ろやっぱりイメージで語ってるじゃねーかw」とか言いそうだが、ある説に対して賛成か反対かというのはむしろ過去の経験から培われた直感が第一なのは当たり前だろう。
しかしその直感だけで議論すべきではないのは仰るとおりで、その説が客観的な根拠を元に語っていれば、理性的な人間ならば納得し支持に回ることすらあるだろう。
では聞くが、先生はこのテクストの中で一体何をもって「具体的なデータ」を語っているのだろうか。
正直小生は今大きなブーメランが飛んでいるのを見せられている気がするぞ。
そもそも一つ前に小生が投じたコメントは、先生の主張のポイントが①(古典の内容>古文文法・漢文法)なのか②(他の科目>古文・漢文)なのか全く読み取れない(これは繰り返し言っている)という大きな問題を抱えている中で、一つの仮説として「あなたの経験上『古文・漢文の授業=古文文法・漢文法の授業』だったことがあなたの説の根幹にあるのではないですか?」と問うているのである。
だってここまで先生からこちらからの問いに対する答えもなければ、テキストにおいて客観的な根拠も出てきていないのだから、こっちの方でそういう風に仮説を立てていくしか話が進まない。
にもかかわらず上記のような表層的な受け取り方をされてしまうと小生としては閉口するしかない。
さらにいえば「価値観の違い」という受け取り方は極めて大きな誤読である。私ははっきりと教師の質を問題にしている。
正直先生の上の反論は、小生の主張に対してあまりに表層的な読み取り方しかされていないため、小生はとても落胆しているのであるが、考えてみればこれは文字によるコミュニケーションの限界かもしれんね。
今回の返信内容(特に授業に関する個人的な経験の部分)を拝見し、このまま論を重ねても双方にとって時間の空費でしかない可能性が高いと考えます。
そこで、今一度原点に立ち返り、私の立論の構造をより詳細に提示します。これへの応答によって、それ以降応答するか否か、また応答する場合はどのような内容にするかを決めさせていただこうと思います。
1.古文や漢文を高校で教える目的とは?
「それを通じて自分たちの過去、すなわち自分たちの現在の思想や社会の成り立ちの基盤を知る」と私は理解しております。そしてこれには、一定の有用性があると私は考えています。
【反論Aのケース】
これ自体が無意味、ないしは極めて優先度が低く、より今日的に即効性のあるものを中心に教えるべきだ、という反論はありえる
2.その目的は機能しているか
私はほとんど機能していないと考えます。では、何をもってそのように評価する(評価しうる)のでしょうか?
授業の中身によって?そうではありません。というのも、その基準での評価は極めて困難だからです。たとえば進学校と付属高では受験という制約の有無で状況が大きく異なります(後者は高校で大学内容をどんどん教えたりもできるし、してもいる)。
また同じ進学校というカテゴリーでも、状況が大きく異なります。例えば「男子御三家」と評される開成、麻布、武蔵ですが、開成はシステマチックに合格実績を出す構造であり、武蔵は受験につながる内容(端的に言えば用語のインプット)より一般教養(もしくは昨今重視されようとしている「思考力」なるもの)を重視する傾向にあるようです。
あるいは公立高でも、進学重点高やスーパーサイエンススクールといった区分けが存在し、一律とは言えません。
またそもそも論として、同じ学校内でも教師の質には相当のバラつきがあり、説明のわかりやすさ・わかりにくさはもちろん、いわゆる入試向けのことを重点的に教える方もいれば、あるいは完全に趣味的に特定の部分をやたらと深く教える人もいたりするわけです。
ことほどさように、学内の状況に絞れば極めて多様であり、ゆえに個人的な体験をそのまま高校教育内容の是非として一般化するには極めて慎重な姿勢が要求されると言えるでしょう(数値でデータ化するのも難しいため、全体像をつかむのはほぼ無理ではないでしょうか。ちなみに、「あなたの経験上『古文・漢文の授業=古文文法・漢文法の授業』だったことがあなたの説の根幹にあるのではないですか?」とコメントでありましたが、そうではありませんし、よしんばそうだとしても、それを一般化すること事体に無理がある、というのが私のスタンスです。ゆえに、その問いに応答する必要を感じませんでした)。
このことを踏まえ、私は「出口」に注目するわけです。つまり、高校を卒業した人々が大学生や社会人になって以降、古文や漢文の素養を活かすような様が広く観察されているのか、と(そう言えば、「ガラスの小びん」に関する記事では、別の方から「受験のことしか考えていない」という趣旨のコメントをいただいたのですが、受験後の話を相当早い段階のコメントで書いているのに、一体何を読んだのだろうかと不思議に思ったものです)。そしてその結論は、「否」です。
その根拠が、繰り返し述べている数字的なことで、「原著を読もうとする人間の数は極めて少ない(ことが書籍の売り上げや図書館の利用状況から如実にわかる)」、「現代語訳すら類似の状況である」、「さらに言えば、『~分でわかる』のようなシリーズや漫画本、あるいはYou Tubeなどの解説動画の隆盛を見るにつけ、原著や現代語訳を読んで素養を活かす努力をするどころか、そもそも基本的な知識すら知らない状況が観察される」という状況になります。逆に言えば、過去に対する浅薄なイメージや誤解が広まっていることがつぶさに観察される状況で、古文・漢文を必修として習った素養が、どう広範に生かされているのか教えていただきたいと思います。
【反論Bのケース】
機能していようがいまいが、目標は目標として変えるべきではない、という反論はありうる。ただその場合、機能させる努力は何かしらしているのか、という疑問が残る。もしそれが伴っていないのであれば、ただの「守旧派」との誹りを免れ得ないように思える。
【反論Cのケース】
Bにも関連するが、そもそも「広範に機能していない」という視点に問題があり、それはごくごく一部にとって血肉になっていればよいのだ、という反論もありうる。なるほど戦前において、高校は(今に比べれば)少数の人間のみが通う場所であり、それは日本のエリート(予備軍)を要請する存在であったのも確かだ。しかし、そういったスタンスで古文や漢文の教育機能を評価するのであれば、なぜ選択制ではなく必修でなくてはならないのかが説明がつかない。
3.目的が機能していないとすれば、どのような対策を取るべきか
繰り返しになりますが、管見の限りで、原著はもちろん現代誤訳も読んでないのが常態です。それどころか、その周辺知識さえよく知られていないといえるでしょう(だからこそ、あえて書きますが、解説動画「ごとき」に多くのニーズがあるのです)。
以上の認識を踏まえつつ、1の考えに則ると、かつての思想などは知っておいた方がよいのですから、どうせ「ほとんどの人が入試ぐらいでしか使ってない」し、「その後も触れる機会のほぼ皆無な」古文や漢文の原文の読み方は必修から外し、周辺知識を体系的に説明することを代替とするべきである、と考えるわけです(原文の読み方にまで踏み込みたい方は、選択授業などでやればよろしいでしょう)。
【反論Dのケース】
そもそも高校での教育を一律に論じなければならない現状のシステムがおかしい、という反論もありうる。たとえば、学校による裁量の幅を広げて、大学入試には出さないこととして、ある学校は必修、そうでない学校は選択制とかにできるようにしないから、惰性として古文・漢文の教育が続けられてしまっているのだ、というように。
まだまだ細分化や反論の想定は可能でしょうが、あまりに煩雑になるのでこの辺りで止めておきます。
なお、前回のコメントで述べた官僚云々の下りがありますが、、もしかすると今後あなたのコメントに返信しない可能性があるので、発言の意図を具体的に説明しておくことにします(これは、以前韓国の事例で反論したスタンスにもつながる性質を持っています)。
あなたのこれまでのコメントを見た私の印象は、「べき論ばかり語って実態を見ようとしているように思えない」というものです。というのも、個人的な体験を中心に語ってそれがどれだけ一般性を持ちうるのかを検証せず、それを訝ることもしないように見受けられるからです。だから、「あなたの体験はどれだけ一般性を持つのですか?」と聞かれ、ようやくそれが主観的なものに過ぎないという言及が出てくるのでしょう。
さて、そのような私の見立てが正しいとすれば、そこから私が連想するのは、いわゆる「大学入学共通テスト」とそれに絡む一連の茶番です。
思考力や判断力といったものを重視するとの謳い文句で導入されようとしている共通テストですが、国語を例にとってみましょう。
そこでは、思考力などを試すための変化として、100字を超える記述式問題が導入されることになっていました。しかしそれは、実施困難ということで「延期」になったわけです。
なるほど我々が受けた記号選択式のセンター試験より、より原初的なところから答えの構築を始めて、さらに答えが複数ありえる記述式の方が思考力を担保しやすい、という考え方自体は荒唐無稽とは必ずしも思いません。実際、国公立の難関校であればあるほど基本的にセンター試験よりも記述式メインの二次試験の比重が高い(科目数が多くて配点も高い)わけで、それは記号選択で主に問われる正確な処理能力よりも、ある問題を深く様々な方向から思考する能力を重視する面が大きいからでしょう(こういった傾向は、日本の受験に限らず、「幸福とは何か」などを論じさせるバカロレアなどでも見られることです)。
以上のことを踏まえれば、処理能力重視の記号選択から、思考力重視の記述式に変えるという発想はわからなくはありません(まあこれも前者に思考の要素が0で、後者に処理の要素が0という単純な二項対立で捉えるのは愚の骨頂だと思いますが)。
しかし、それを実際に導入しようとしたらどのような結果になったでしょうか?
調べればすぐにわかることですが、センター試験は1月中旬に55万人程度が受けるテストで、さらにそこから成績提出もしなければならないため、短期間で採点をする必要が生じます。
そこで散々採点方法(人員確保)や採点基準の公平性について議論が噴出した結果、抜き書きにするという話になり、それなら答えが一位に決まるわけだから記号選択と同じやん(むしろ問題の難易度が上がって採点が面倒になっただけ)、という突っ込みが入るに到り、最後には導入延期となったわけです。
これは、理想論だけあって実態や実効性を考慮しない頭でっかちの人間が政策決定をするとどうなるかの実によい見本だったと言えるでしょう(まあこういう理想論だけで実態を顧みない事例は、前漢の末期に約1000年前の周のやり方を復古させようとして失敗した王莽みたいな例もあるので、今に始まったことではありませんが)。
さて、これだとただ理想論を揶揄しているだけだと思われるかもしれませんので、もう少し補足します。この点について、実はきちんと現実を見ていれば、いくらでも工夫の「手がかり」は存在していたのです。
例えば、国公立が記述中心の二次試験であることは既述の通りですが、国公立にはいわゆる「足切り」があることもよく知られています(まあ以下のことは釈迦に説法かもしれませんが、一応説明のために必要なのでご了承ください)。これは募集定員に対して一定の倍率になった時点でセンター試験の点数を元に二次試験を受ける人数を絞り込むシステムですが、こうすることによって、記述式の試験を無理なく行える状況を担保しているわけです。
このような工夫を見ていれば、センター試験というずっと大きい規模の試験で記述式をそのまま導入するなどという蛮勇を奮おうなどという気は起きなかったと思うのですが、まあ理想に目がくらんで現実を見ようとしなかったのかもしれません。
せめて、AIによる正確な採点システムを開発&導入する目途が立ってから問題形式の変更を決定するか、あるいはセンター試験を受ける人数そのものを激減させる準備をしてからそうすべきだった、と言えるでしょう。
後者は何やら不穏なことを言っているように聞こえるかもしれませんが、これは今すでに文科省から打ち出されている推薦枠の拡大のことで、たとえば韓国のように推薦を入試全体の8割にまで増やし、一般受験者の人数をそもそも相当絞り込むシステム変更を先にやってから記述式への変更を行うべきだった、ということです(推薦枠を増やす=善という単純な話をしたいのわけではないので悪しからず)。
しかし実際は、既述のように見切り発射をしようとしたわけで、結果として様々なところに大混乱を生じさせただけだったと言えるでしょう。
このような現実を見ない理想主義者(とさえ言っていいんですかね?)の所業を見る時、韓国の漢字教育について憂う人間と、国語の記述式を導入しようとした人々に近似の病理を見いだすわけです(完全に同じ、とは言いませんが)。
私からは以上です。
・・・・・・と思う程度にはムッカー氏の主張は整理して示されたものと考える。
正直対話を一方的に遮断することを仄めかす人間に筆舌を尽くして語るほど人間ができていないので、もういいかなと思っていたが、まあこんなことで友情が消えてしまうのもやるせない話でもあるので、一応語るべきことは語って終わりにしようと思う。(上のコメントにも書いたことだが、文字によるコミュニケーションに限界を露呈しているのだし、飲みながら話をすることもできそうなものだが。)
1.根本的な誤謬
返信するのがあほらしくなった一番の原因はここにあるのだが、ムッカー氏は高校(後期中等教育)において古典が必修であるかのように語っているが、そもそも古典は必修ではない。
分かりやすい資料としては以下をご覧いただきたい。
■「高等学校国語科の科目構成について」
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/068/siryo/__icsFiles/afieldfile/2016/04/01/1369033-6.pdf
この資料の2ページを見れば実は昭和の昔から古典は必修でなかったことが容易に読み取れる。
さらに注目すべきは3ページで、古典分野は古典Aと古典Bとに分かれているが、古典Bが「読むこと」を指導事項としているのに対して、古典Aが「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」を指導事項としているのである。
ムッカー氏が重要と力説している古典の背景知識については、現行の教育制度上も科目の50%は割り振られているのである。
だから、「それを通じて自分たちの過去、すなわち自分たちの現在の思想や社会の成り立ちの基盤を知る」というムッカー氏の古典科目に求める教育目的が達成できていない理由は、理念を具現化する機関であるところの教育現場の瑕疵という可能性を疑ってみる余地があるだろう。
当方の管見では、ここでキーワードとなってくるのは「大学受験」である。このことについては項を改めて書きたい。
なお、以前謎の覆面レスラー氏がムッカー氏に対して学習指導要領の一読を勧めたが、この資料の11ページにも記載がある。
■高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説 国語編
https://www.mext.go.jp/content/1407073_02_1_2.pdf
ムッカー氏はファクトの重要性を力説するが、議論の大前提のファクトを把握していないのは残念だった。
大学受験の話に進む前にこの点についても言及しておきたい。
ムッカー氏は、社会人が古文や漢文の素養を活かすような様が広く観察されないことを古典教育の目的が達成されていない理由として挙げている。
その中で、半ば冗談めかして『徒然草』がベストセラーにならない現実などを論っているが、これもいかがなものだろうかと思う。
書店に行けば、昨今の出版不況にもめげず相応に古典が書架に並んでいることは容易に分かるはずである。
そして「相応に」というのは、数学科や社会科など他の教科と同様に、社会人全員ではないが確実に一部の人間には手に取られる程度には売れているのである。
だから殊更に古典科についてのみ出口が機能していないというムッカー氏の主張には大いなる陥穽があると言わざるを得ない。
もしムッカー氏があくまでもこの出口注目理論に固執するのであれば、他教科の実態との比較は必定であろう。
とは言え、当方に言わせれば、むしろそこに労力を費やすよりは、古典Aが教育現場において機能していない可能性について検証することの方が有益と考えるが。
(まあそれは専門家の知見を求める他ないのだが。)
教育というのは原点に立ち返ってみれば「読み・書き・そろばん」ができるようになることが肝ということは今も昔も変わらない。(※)
このことを徹底的に定着させることが初等教育の目的だとすれば、中等教育以降はこれにとどまらない知性を身につけさせることも目的の範疇に入ってくるのは当然だろう。
そこで何を教えるのか、というのは国家的視点から取捨選択されるということ、そして、選択科目であるとは言えここに古典科が選択されていることは肯定すべきものであると考えている。
その目的について、当方は「それを通じて自分たちの過去、すなわち自分たちの現在の思想や社会の成り立ちの基盤を知る」というムッカー氏の理念を否定するものではない。
しかし、これは既に書いたことだが、「古典、とりわけ原典へアクセスするための技能を絶やさないようにすること」の方により根源的な目的意識を持っている。
使われない言語というのは、意識的に注目しなければ死滅する。
最も分かりやすい例は方言である。ラジオやテレビを端緒とする情報技術の向上により、「標準語」が日本全国津々浦々の人々に届けられ、世代を経るにしたがって定着し、ローカル言語である方言は確実に絶対的話者数を減じている。
方言を積極的に学校教育に組み込むと言う話は、自治体によってはあるのかもしれないが、おそらくかなりの少数派であろう。
こうなれば、さらに数世代後には関西弁のような例外を除いて方言そのものが死滅するのが論理的帰結となる。
そうしないためには、教育と言う形で次世代に紡いでいくことが必要なのである。そしてその想いは別に全ての学生に対して即時的にかつ同質的に届かなければ失敗というものではない。
ムッカー氏の挙げた例から言えば、「『〜分でわかる』のようなシリーズや漫画本、あるいはYou Tubeなどの解説動画の隆盛」というのは、そのような前の世代の想いを受け取った次の世代の一部の人間による営為であり、教育を受けなければこのようなアクション自体が存在しないわけである。
あえて感覚的で何の根拠もない言い方をすれば、
・古典に対して原典レベルでアクセスすることができる1割
・古典についてぼんやりとした興味を持っている8割
・全く無関心な1割
というような割合で層が形成できれば教育の効用があったと言ってもよい。
古典の背景知識も重要であると言うムッカー氏の主張自体は特に否定するものではない。しかし、あくまでも原典をベースに教授することは、公教育レベルで絶対に無視してはならない。
そういうわけで原典軽視の古典科教授法を当方は肯定できない。
(そもそもそれがどのような授業になるのか想像もし難いのであるが。)
いずれにしても、当方の主張がムッカー氏が拘泥するような浅薄な「エリート主義的」発想によるものでは決してないということがお分かりいただけたかと思う。
※能書き
孔子は君子に必要な基本的な学術を「六芸」、すなわち「礼・楽・射・御・書・数」とした。あえて今の教科に直すなら「道徳・音楽・体育(弓術と馬術)・国語・算数」となるか。
また、西洋のリベラルアーツ自由七科とされたのは「文法・修辞学・論理学・算術・幾何学・天文学・音楽」。「読み書きそろばん」と大きく異ならないのは要の東西を問わず教育の本質であることの証左だろう。
ムッカー氏の主張が「古典Aをもっと重要視せよ」という形に逢着するのであれば、当方はその主張自体について特に何も言うことはない。むしろ古典Aの目指すところに従えばそれもよかろうとさえ思う。
しかし、高等学校において古典Aに力を入れているところはそれほど多くはないのではないかと思われる。
その理由は単純明快で、同じ古典科でも古典Bに比べて古典Aが大学受験において重視されていない体と思われる。
(これは社会科においても同様の理由で世界史Aや日本史A等が重視されていないのではないかと想像する。そういえば当方の学生時代も世界史Aは高2の時に教科書を配られておしまいだった。)
ではなぜ大学受験の大部分において「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」を範囲とする古典Aではなく、「読むこと」を最重要視する古典Bを出題範囲とされているのか。
この点については、長年代々木ゼミナールの英語講師を務められている富田一彦氏が『試験勉強という名の知的冒険』および『キミは何のために勉強するのか』(共に大和書房)において論じている内容にほぼ全面的に賛同するので、それを紹介することとしたい。
なお、氏は英語講師であるから当然議論も基本的には英語科をベースに展開しているが、古典科に置き換えて論ずることも全く支障のない理路となっている。
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では、中学校以上の教育の目的は何か。それは「ある閉じたルール体系を与えられた時、それに従って思考し、対処し、その体系の中で正しい結果を導く能力を養う」ことに尽きる。これまでも何度か触れてきたが、これが学力の正体である「抽象化」だ。それは、大人になってそれぞれの社会システム(会社であれ役所であれ他の職種であれ)の中に入った時、そのシステムの本質を素早く見抜いてそこからルールを抽出し、それを上手に使って生きていくのに、直接的ではないにしても役に立つからである。
一番わかりやすい例として数学を取り上げよう。数学というのはある公理系の上で整合的に成り立つことがらを、数字と論理を使って証明していく作業である。繰り返しになるが、世の大人の中で毎日因数分解をしている人間は千人に一人もいないに違いない。だが、だからと言って数学をやる意義が減じるわけではない。自分とは直接関係のない「系」を受け入れ、そのルールに従って得られる結果を求めるという経験は、将来どのような職業に就こうと生かしうるからである。
実は、英語を学習する意味も同じである。「音声と文字を持つ」という以外、日本語と何の共通点もない外国語という系の中で、そのルールに従って話され、書かれたものを解剖し、またパーツを論理的に組立てていく、という作業は、将来外国語など全く使わない人間にも有効な訓練である。そういう知的訓練のチャンスを合理的に与えるために、英語という科目は存在しているのだ。別に「将来英語を使って生きていく」ためでは全くない。この部分、つまり「なぜ英語を勉強するのか」という出発点の部分がまったく見えていないまま、実用性の論議ばかりがされていることが今の議論が不毛でかつ有害である最大の理由だと私は思う。
(富田『キミは何のために勉強するのか』180~181頁)
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富田のいう「社会システム」というのは、当然大学という学問を究める世界も含まれることになる。だから大学は、入学を希望する学生に対して、入学試験として「ある閉じたルール体系を与えられた時、それに従って思考し、対処し、その体系の中で正しい結果を導く能力を」問うわけである。
そしてそれは、古典という「外語」科目においては、与えられた文章を正確に解釈するという古典Bの範囲で示される能力によって判断することが最適とされているのが現状、というわけである。
あえて突飛な言い方をすれば、このような能力が測られさえすれば、題材は別に何でもよいのである。
例えば数学科で言えば現在のメインは数論、幾何、代数、解析の範囲であろうが、これを情報数理をメインに置き換えても構わないし、同じ「閉じた言語体系」(と言って理解できるか? 新井紀子の著作を読んでいれば既知と期待する)としてみれば、数学自体を音楽(楽典)に置き換えて入学試験で問うてもよい。
外国語でも同様で、何も英語に拘らずとも仏独西露中は言わずもがな、フィンランド語やハワイ語であっても構いはしないわけである。
そのような理路の下で、大学受験において古文漢文の原文解釈能力が問われているところに、当方は古典を学ぶ消極的肯定理由を見出すのである。(貴方なら同じ学ぶにしても祖先の言語を学ぶのと自分にとって全く関係のない異国の言語を学ぶのとではどちらに意義を感じますか? という話。)
これまでムッカー氏と当方は、古典を学ぶ積極的肯定理由についてフォーカスしてきたが、上記のような「抽象的運用能力の涵養(そしてそれを問う大学受験)」という科目横断的に共通する理由があることも理解するべきだろう。
なお、これは完全なる私見になるが、「抽象的運用能力の涵養」の観点で古文・漢文の原文解釈学習を行う積極的肯定理由として、「外語理解のバランスが良い」ということを密かに挙げたい思っている。
言語を次のように四象限に分類する。
第1象限: 自国現代語
第2象限: 自国古語
第3象限: 外国現代語
第4象限: 外国古語
このとき自分の属する言語体系は第1象限で、それ以外の象限は別の言語体系となる。
このとき、第2象限と第3象限は第1象限から等距離にあり、このいずれも公教育下で学習することはバランスが取れていると言える。
そして第4象限に位置するラテン語や古英語のような言語領域は大学の文学部等で研究するものであるが、ここで第3象限のみならず第2象限でのノウハウが援用される可能性は否定できないように思われるのである。
このような点からも、当方は古典の原文解釈をベースとする学習を肯定するのである。
とりあえず、当方が最後に主張しておきたい内容は以上のとおりである。
(その他、ムッカー氏の言説(言いがかり?)に対する苦言めいたものもあるが、それについてここに残すかどうかについては時間を置いての検討としたい。)
古文に関しても似たり寄ったりで、大学で「伊勢物語」や「源氏物語」を講読する授業をとってはいたが、これを古文で読む意味とは(現代語訳でよくね??)・・・と疑問に思いつつ、仮に大学で勉強するにしても、やっぱり大学1年で古典文法を教えれば十分じゃねーの?と感じた次第である(今だったら映像授業もあるわけだし、大学で対面の講義形式で講師がわざわざ教える必要すらない。勉強させる方法としては理系と同じで、それを専攻とするコースにいるような学生は単位付与の要件を厳しくし、取れないヤツはガンガン留年させる仕組みにしたら、否応なく勉強するんじゃないですかね?)。
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個人的な体験を中心に語ってそれがどれだけ一般性を持ちうるのかを検証せず、それを訝ることもしないように見受けられる
「あなたが高校の古文・漢文の授業について経験したことやそれに基づく主張が広範に適用しうる具体的根拠を明示しなさい」
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あなたのこれまでのコメントを見た私の印象は、「べき論ばかり語って実態を見ようとしているように思えない」というものです。というのも、個人的な体験を中心に語ってそれがどれだけ一般性を持ちうるのかを検証せず、それを訝ることもしないように見受けられるからです。だから、「あなたの体験はどれだけ一般性を持つのですか?」と聞かれ、ようやくそれが主観的なものに過ぎないという言及が出てくるのでしょう。
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この3センテンスから構成されるパラグラフについては、それぞれにいやしくも物書きであるならば指してはならない悪手が見られるので、苦言というか今後のムッカー氏の参考となるように明確にしておこうと思う。(既に自ら気付いて反省しているのであれば完全なる蛇足であるが。)
★1stセンテンス
> あなたのこれまでのコメントを見た私の印象は、「べき論ばかり語って実態を見ようとしているように思えない」というものです。
これはムッカー氏の印象論であって、大人の議論としては何の意味も持たない批判であるばかりか、単なる誹謗中傷の域を出ないものである。
当方の主張が「べき論」というのであれば、具体的にどの部分がどういう意味合いで「べき論」であるのか、そしてそれと比較して自分の主張が単なる「べき論」とはどう違うのか。
相手の主張を「べき論」と批判するならば、上記の論証を行うことは当然であるが、ムッカー氏のテクストからはそのような記述は微塵も見られない。
★2ndセンテンス
> というのも、個人的な体験を中心に語ってそれがどれだけ一般性を持ちうるのかを検証せず、それを訝ることもしないように見受けられるからです。
これは一つ前のコメントで明確にしたことなのでくだくだしくは言わないが、相手を批判する前に自分がその批判にあたらないか検証せず、それを訝ることもしないように見受けられる、というものである。
★3rdセンテンス
> だから、「あなたの体験はどれだけ一般性を持つのですか?」と聞かれ、ようやくそれが主観的なものに過ぎないという言及が出てくるのでしょう。
ここにもムッカー氏の誤読というか誤解がある。
どうもムッカー氏は自分も個人的な経験から論を展開するのが好きな割に、議論の相手に対してはその論法を非難するのがお好きなようだが、既に書いているとおり、当方が個人的な経験を持ち出したのは、いつまでたっても見えてこないムッカー氏の主張を解明するための「仮説」を立てるためのものである。
ある主張の根拠として100%個人的経験に基づくものを提示されれば他人を説得することができないのはムッカー氏お説のとおりかもしれないが、仮説立案のベースに個人的経験を持ち出すことについて同様に非難される筋合いはない。
そのような非難が罷り通るのであれば、例えば戦後日本の知識人たちが展開した平和論、民主主義論、自由論その他諸々の議論の大半が「それってあなたの戦争経験から来る感想ですよね」的に葬り去られてしまうだろう。(そして当然そんなことはない)
ということで、どんなに忙しい最中でもひとたび論争を行う気になったのであれば、相手の文章を丹念に読むことは基本中の基本というものであろう。
正直言ってこの議論の応酬がここまで込み入ってしまった諸悪の根源は、「ムッカー氏の主張は以下の2つのどちらなのか?」;
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①筆者は古典を学ぶことは重要であると考えるが、より重要なのは古典の内容を知ることであって、原典を読むための文法知識を学ぶことの優先度は低くあるべきだ(古典の内容>古文文法・漢文法)
②想定読者は日本の古典文化を知ることが重要と言うが、筆者はそれ自体理解はするし、それを不要だとまでは言わないが、優先度自体は他の科目に比べて劣後すべきだ(他の科目>古文・漢文)
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という当方の質問について結局最後の最後まで真正面から回答をしなかったことに起因する。
(ムッカー氏は、途中で何度か「あくまで優先順位の問題」と返すのみであったが、①も②も優先順位の問題であることに変わりはない。)
心ある第三者(知的水準は我々以上と考えていただいてよい。なお、謎の覆面レスラー氏ではない。)にもムッカー氏のテクストに目通ししてもらったが、やはり「タイトルは②だが、テクストは①について立論しているようにしか読めない。」という見解であった。
当方は世の中に向けてきちんとした意見を表明する人に対して無条件にリスペクトする立場であるので、それを長年続けられているムッカー氏に対しても畏敬の念を禁じえないのであるが、だからと言ってそのような方々が自身の無謬性を信じて顧みない振舞いをするのは明らかに矩を踰えた行為と断じる他ないのである。
ここまで当方の主張に加えて僭越ながら苦言を3点述べさせていただいた。これ以上加えるべきことは特にないと考えているので、ムッカー氏からのレスポンスのない限り、これ以上のスレ汚しは控えることとしたい。
なお、今回のやり取りの中で自身の考えを再整理することができた点については、ムッカー氏に謝意を申し上げたい。
【付録】2020-07-14 03:16:50ムッカー氏主張に対する当方の考え方
1.古文や漢文を高校で教える目的とは?
⇒積極的肯定意見の一つとしては同意。ただし、目的はそれに限らない。
2.その目的は機能しているか
⇒検証根拠について反対。
3.目的が機能していないとすれば、どのような対策を取るべきか
⇒2で否定しているため触れなかった。
※「官僚云々の下り」の補足
⇒今回の議論との関連性において意味不明瞭のため特に触れなかった。
【付録②】苦言サマリ
①相手を批判する前に自分にその批判が当てはまることはないか振り返ろう
②批判と非難の違いを意識しよう
③問いに対しては真正面から答えよう